わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇
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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(35)
しかし自分自身商売は全然経験がないばかりでなく農業移民でブラジルにきて町住いとは道理が合わないとばかり思っていた。それでも呼び寄せ手続きが出来たので2週間程、義弟実のフェイラ現場を見たりしていると、
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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(34)
とにかく旧移民は働きに働いてようやく今日を築いてきた。従って君たち新移民も理屈抜きに働くことこそ成功の基だ、と常に過重労働を強要していた。自分にとって働く喜びは充分理解しているし、夜明けと共に朝露を
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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(33)
そして縁故もない未知のトッパンの嘉数家(小禄)に配耕されていた。嘉数家は、在伯沖縄協会トッパン支部長の具志堅彦昇氏に依頼し出迎えていた。ところがミラカツーの山城蒲吉(親戚)は私を受入れないが、同ミラ
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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(32)
当日は陽春の日和りで、那覇港埠頭は見送りに駆けつけた人々で混雑し、その中に三和中学校の生徒数十人と先生方が大きな幟をはためかせて見送る風景はひときわ目立っていた。その脇間に千枝子と一也、母の姿がちら
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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(31)
即ち「海外雄飛」、かつての満蒙開拓青少年義勇軍の満州開拓時代やハワイ県人移民の現実の姿を自分の身に重ね合わせて見ながら、未来への人生を模索するのであった。 しかし、千枝子にそんなことを語ったことも
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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(30)
アメリカ陸軍史上空前の紫心部隊、勲章部隊、勲功部隊として二ユース映画になったことは申すまでもない。この「442部隊の実践記録」という本と、「第442部隊」の本2冊がその部隊に所属した兵士たち自身が書
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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(29)
翌日予想通り早朝から雨だった。照屋さんの予想は的中したわけである。農場を一巡した彼は出荷用箱の組立作業がある。続いて納期の準備をして雨後の多忙に備える。ほとんど午前中にこの作業が終る。 午後少々小
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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(28)
生産と消費を直結させ、自分の創意工夫を原点に「儲かる農家」の実践躬行、これが究極の目的であると彼は誇らし気に語る。 こうした理念に立って照屋さんの「理論と実践」は有言実行の代表人物として皆さんから
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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(27)
全く遺憾なことであるが高齢者にとってはこれでよいとのことである。それでも若い頃よく働き稼いだものだ。東京で医学を学ぶ弟に資金提供し医科大学を卒業させ医学博士にまで育て上げたことは自分の誇りである、と
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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(26)
アメリカ合衆国国際農業青年交換計画制度もその一つでハワイには国際協力センター支所がある。その制度とセンターを利用しハワイ沖縄県人連合会とハワイ大学共催による戦災沖縄の農業青年研修をハワイで6ヶ月実施