わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇
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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(25)
沖縄の現実を凝視した場合、今日経済的、精神的な面においては、更生への一途を辿りつつあるとはいうものの青年をして、建設的な意欲をみたしうる施策が講じられていないことは、はなはだ残念であり、この運動こそ
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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(24)
従って学校の運動会、村体育協会の陸上競技大会・綱引き・村芝居に至るまで青年会が活動せざるを得なくなり教職員会の行事以上に多忙となった。糸満地区には東風平村、兼城村、高嶺村、糸満町に三和村の1町4村の
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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(23)
その時20歳の年齢に達していた私は、農業を1年生から学ぶことになった。学歴社会の日本ではこれ以外の選択肢がないことを大先輩から教えられての人生処方であった。 在学中4~5歳も年上ということで同級生
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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(22)
そこで姉が母の頭の血をふくために壕内にタオルを取りに行ったら、末子の光男(当時赤子)が泣いていたので連れだしてきたと云う。そのまま壕入口に銃をかまえて待つアメリカ兵たちに捕えられ、軍用車まで2キロ以
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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(21)
米須部落の中心地(元摩文仁村役場のあった地点)も全く打ち変って、部落の配給所となっていた。区民は食糧の配給を受けるため多数の人々が集っていた。そこへトラックから私は下り立った。その人込みの中に母と姉
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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(20)
ところで私は、故郷の家族は全滅して誰一人として頼れる人がいなければ帰っても仕方がない、とばかりに考えていた。3年前に勤労奉仕で1ヶ月馴染んだ北海道は土地も広く今後日本の農業にとって最も適した土地であ
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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(19)
そこで多久島さんは大連へ戻ることになり、私だけミーリアン部隊長の家で夫人のお手伝いを約6ヶ月間働かされた。彼は女の子1人の3人家族 だった。主食の黒パンやコロッケの作り方もその時に教えられ、早朝から
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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(18)
前日移動準備をしていた馬を利用して、夕暮れに全部隊は営門を出発した。一行河可子向け鉄道沿線にそって乗馬行軍歩行していたその時、後方から汽車が走ってきた。わが部隊およそ200名以上だったと思うが、その
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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(17)
6月末沖縄戦敗北が伝わった。従って古里沖縄は軍民全滅の予感が頭をよぎった。先年グァムやサイパン等南洋諸島の玉砕同様古里沖縄も激戦の果てに県民まで玉砕とはなんたることか、真の神国日本の威力とは一帯何時
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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(16)
一面坡訓練所本部には6ヶ中隊が配属され、それぞれ2ヵ年から3ヵ年そこで訓練を受け、その後開拓団へと移行する。開拓団も団体の共同経営が続き5ヵ年後から個々人の農家経営になる。結局一カ村の開拓村を形成す