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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇

わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(15)

 わが富山中隊が駐屯する地区はこの駅から15km、徒歩で約3時間半を要すると云う。そして夢に描いた「曠漠千里…」の大平原とは程遠い山あり丘あり小川など山紫水明の地であった。かつてロシアが森林鉄道を敷設し無限の密林を伐採し、この鉄道で運びだしたと云われている。付近には大木の切り株が無数にくされかかったまま残っていた。 ...

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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(14)

 博多から釜山への海上輸送船も時間は決まらない。要するに連合艦隊の監視を避けるために夜間ひそかに出航するのである。勿論、船名や時刻は秘密にしての出航であり、乗船と同時に浮遊袋がくばられ着用が義務づけられての出で立ちだった。夕闇迫る頃だった。  中隊長はいつ魚雷に遭遇するか知らないので指示に従い安眠は絶対にゆるされないと告げられた ...

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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(13)

 4~5月と厳しい訓練所生活にも馴染み入所から3カ月、ひたすら農業実習と軍事教練に明け暮れていたが、5月にはアッツ島の日本軍守備隊が全滅し国民に大きなショックをあたえたばかりでなく、戦局は緊迫状態に陥っていた。皇国日本の軍隊も強烈な連合軍の勢力に抗しきれず、一層厳しさを増し空軍の制空権は奪われていた。日本軍戦局は後退の一途、その ...

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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(12)

 1分隊は、11~12名の4分隊で1小隊を編 するようになっていた。円形の日輪兵舎は直径8メートル位の円周50メートル程。従って隊員は、頭を壁側に向け足は中央に揃え枕元部分が約1メートル単位で区割され壁にはうす板2枚の整理棚が据つけられていて、衣服と私物一切をきちんと並べ固定。いつでも着替えて外出できるように整理・整頓しておかね ...

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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(11)

 汽車は予定通り3月10日内原訓練所に到着し、安堵感を抱きながら第30當山中隊の日輪兵舎に旅装を解いた。  満州開拓史を参考に當山中隊拓友会 記録集より抜粋  注1 満蒙開拓青少年義勇軍とは  昭和7年3月、現在の中国東北地区に新しい国家として「満州国」が誕生しました。  この満州の地に日本民族の“植民地”という国家の政策的使命 ...

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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(10)

 なかでも小学校6年生3学期からは進路指導があり、先生との接触が頻繁となる。元々私は、小粒な身体で遅進児ゆえに同級生の間ではチビッ子呼ばわりだった。それだけに体重も軽かったのであろう。  鉄棒では技も割りによく、懸垂では18回で学校では常に優勝していた。身体こそ小さいが負けず嫌いな性格だったようである。満蒙開拓青少年義勇軍への申 ...

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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(9)

 自分にとっては小学高学年にもなると、学校の宿題も多く勉強時間が増えるので親父の三線研修時間とよく重なった。それも連日となると折角の音楽もいやな雑音になり、勉強のじゃまにしかならなかった。  幼少の頃からこのような環境で育ってきたせいか、音楽(特に三線)は嫌厭感にさらされ、なかなか親しみを覚えることがなかった。  郷土の文化とし ...

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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(8)

 私には中味はよく知らなかったが、千人針の腹巻布を贈って武運長久を祈るとか翼賛会、国防婦人会など理解し難い組織や言葉が頻繁に聞かされるようになった。  1940年4月、私は6年生に進級した。担任は真栄平守正先生だった。先生は倫理観に優れた先生であった。6年生とは云いながら教科書以外に読書をしたこともない片田舎の私たち学童に放課後 ...

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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(7)

 ある時にはモモにいたるまで直に体験させた上で指導、知らない果物など田舎育ちの子供たちにとっては興味しんしんで、とても楽しく先生の授業は今も鮮明に覚えている。  厳正な羽織袴姿とやさしく分かりよいハル先生の教えに私は、子供ながらに強く心をひかれていたことを今も忘れがたく懐かしい思い出となっている。  翌年4月には2年生に進級した ...

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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(6)

 当時の間切長宮里蒲助の名をもって蒲助浜と付したと歴史は伝えている。そこで蒲助浜(実質的には米須海岸)の砂丘に糸満から漁業者(ウミンチュー)数家族が呼ばれ移住し、浜小(ハマグワー)と云う集落が形成され誕生した。  この集落は、去った沖縄戦(1944~1945年)まで続いていたが大戦によって灰儘と化し、今ではその痕跡さえ見えなくな ...

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