私のシベリア抑留記=谷口 範之
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自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(73)
(三)ブラジル日系文学誌の選者の一人の評について ブラジル日系文学№二六(二〇〇七年七月)に、体験記として『私のシベリア抑留記』が掲載されたが、これは編集者に乞われたからである。原稿用紙三〇〇
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自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(72)
彼は私が遠いブラジルからわざわざシベリア墓参に参加したのは、同時にあの当時の仕返しをするためではないかと勘繰り、絶えず私の動向を見守っていたのだ。だから訊ねもしないのに小之原が死んだことや、モルドイ
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自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(71)
私はあの夢と同じように、裏へ回って勝手口の戸を開けた。台所の板の間に両親は並んで行儀よく座り、私の帰りを予期していたかのように私を見つめた。二年の間に、すっかり老いてしまった両親の頬に涙が流れた。
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自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(70)
夕方握り飯を二個支給され、隊列を組んで緩い坂を上がったところに駅があった。ここで東さんと惜別する。彼は別の車輌に乗車することになったのだ。一旦田舎の父母の下に帰り、善後策を考えるということだった。
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自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(69)
灯りの向こうの暗闇に故郷の山川があらわれて、よくぞ生きて帰ってきたと、語りかけてくるようであった。真冬の日本海上、灯りが見えなくなるまで佇ちつくしていた。吹きつける寒風を暖かく感じながらー。 生涯
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自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(68)
ソ連軍将校の中には日本語を私たちより上手に話すものがいる。彼もその一人で連れの将校も、理路整然と語った。東さんがみんなを見回して言った。 「俺たちが生きて帰ってこそ、死んだ戦友たちの霊も浮ばれると思
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自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(67)
「先程の質問にたいしては、資料がなくて答えられない。しかし増産態勢にあることは確実である。明日要求にあった鉛筆とノートを用意する」 上級将校は鮮やかな日本語で説明し、私に向かって微笑して去った。翌日
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自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(66)
福岡県の炭鉱で働いていたことなど問わず語りに分かり、だが何故降格されたのか、佐世保で別れるまで打ち明けなかった。 復員後二年近く文通し、以前の炭鉱で働いていると小まめに身辺を知らせてくれていたが、
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自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(65)
どのくらい貨車に揺られていただろうか。大きな駅に着き貨車から降りた。元山である。また一歩日本が近くになった。元山まで来ていることは、確かに帰還することに間違いないはずだが、一度思いきりよく騙されてい
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自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(64)
すきっ腹をかかえ寝ころんだ。寒風が吹き込まないから、扉なしのセメント床の上でも寒さを感じない。 後側の板囲いの上部の空間を眺めた。急傾斜の小山に木の十字架の墓標が、ビッシリ立っている。ソ連は無宗教