私のシベリア抑留記=谷口 範之

  • 自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(53)

     そんな彼はいかにも手に負えない兵隊に思えたが、こうして身近に接していると、意外にも好人物であることが分かってきた。一見ぎょろ目で髭は濃く、取り付きにくい感じなのだが、たまに冗談を飛ばしたりして、いつ

  • 自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(52)

      三、収容所(日本窒素K・Kの社宅街)  間もなく有刺鉄線を張り巡らした収容所に着いた。監視塔は見当たらない。周囲は山で囲まれている。日暮れてきた。日本窒素の社宅街を収容所にしているという。 「社宅

  • 自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(51)

     今夜はこの浜辺で一泊だ。浜辺に座ると太陽で温められた砂地が心地よく、眠気を誘う。  昨年九月、モルドイ村へ連行される途中、一泊した夜の猛吹雪に凍えたことを思い出した。  今日も食事なし。砂浜に横たわ

  • 自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(50)

     乗船してみて日本海を横断するには、船が小さ過ぎると思った。その上、甲板と海面の差は一mあるなしである。これでは日本帰還は危険だ。とすれば、ここから遠くない地に私たちを運び、体力を付けさせて再びシベリ

  • 自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(49)

     ノーバヤを出発する時の角砂糖二個といい、今日の桃缶といい、かつてなかった些細な待遇改善は、間違いなく帰還の前触れかもしれない。  ソ連は捕虜の送還に当たって、少しでも良い印象を与えておこうと、子供騙

  • 自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(48)

     女性ばかり四人が鉄橋に立ちはだかっている。鉄橋の修理をしているらしい。本来なら男がやる仕事を、女性の労働者が夜中にやっていた。第二次世界大戦で男手が不足したためだろうが、それにしても労働意欲の素晴ら

  • 自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(47)

     駅舎の屋根の上にロシア文字が六個並んでいる。通りがかりの人にその文字を指差すと 「ハバロフスク」  と、教えてくれた。  広い入口から待合室に入ってみる。薄暗い内部は旅人らしい人々で混雑している。そ

  • 自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(46)

     (後年ブラジルに移住し、サンパウロ州ピエダーデ郡に小農場を構えた当初、丘下の小川で水を汲んでは、中腹の住居まで運ぶ日がしばらく続いた。急坂を三〇〇m余りも運べる水の量は限られていた。井戸が完成するま

  • 自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(45)

      一六、列車は東へ(一)  家畜並みの身体検査は終わった。通訳が私の方のグループに告げた。 「所持品を持って、至急ここに集まって下さい」  すぐ近くの屋根のないプラットホームに導かれた。貨物列車が停

  • 自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(44)

    「広島はどこかね」 「市内の己斐町だよ」 「僕も己斐本町だ。駅前の高野食堂の息子の哲雄というもんだ」 「なんだ。高野さん、谷口ですよ。新京ではお世話になりました」  高野さんは私が入隊前勤務していた満

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