立錐の余地もないほど押し込まれたから、錠のことなど気に留めなかったのかもしれない。列車が動き出すと、前方から順次腰をおろしていった。どうにか腰をおろすと落着いた気分が湧き、一斉に黒パンに齧りついた。強い酸味が口中にひろがったが、みんなは黙々と食っていた。 扉の傍に置いてある半分に切った樽は、便器代りらしい。列車が進むにつれて ...
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自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(8)
第三章 抑留(一) (一九四五年八月~一二月) 一、博克図仮設収容所 夜間強行軍ののち博克図陸軍病院の仮設収容所に集結した連隊の生存者約一五〇〇名は、食料の支給がないまま草を食い、木の皮を噛み、夜間の寒さにふるえながら毛布一枚の野営を強いられた。 周囲を取り囲む柵は一重だが、二・五mもの高さに有刺鉄線を一五㎝間隔に ...
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今でも私は思う。爆雷を胸に抱き、敵戦車に肉弾攻撃を仕掛けて無念にも死んでいった、名もない兵士たちを。そしてその壮烈な死を誰一人一顧だにしなかったことを。彼ら一介の兵の戦死は持て囃されることが全くなかったのである。 これに対して飛行機、小潜水艇などによる特攻は実に華々しく喧伝され、顕彰された。行動の派手さ加減が人々の注目を集め ...
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一七時頃、中央と東丘陵間の谷間の中間地点までソ軍二箇小隊が進入。 八月一七日、敵の砲撃なし。中央と東丘陵方向から銃声しきりに聞える。不思議にもわれわれが展開している西丘陵には一五日の攻撃後はソ連軍はやってこない。 八月中旬とはいえ、海抜一八〇〇mの大興安領山脈の夜は、冬のように冷える。後方からの補給は一三日の布陣の時、握り ...
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一三時頃、われわれの陣地後方、大隊指揮所前方に配備された、九〇式自走野砲と傍の大隊砲各一門は、直撃弾三発を受けて破壊された。 一四時頃、中央丘陵に布陣した第五分隊は、敵歩兵に攻撃されて応戦し撃退した。それから数一〇分後、敵火砲の集中砲火を浴びて全滅した。谷越しに五分隊の応戦と全滅を見下していて、断腸の思いであった。 分隊長 ...
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戦史研究家、串出圭一著(ソ連軍侵攻と関東軍の戦い)によると、わが連隊が迎撃したソ連軍の編成は次の通りである。 「第三六軍…戦車一箇旅団(二五〇輌)、七箇狙撃師団、二箇陣地守備隊、二箇独立戦車大隊及び二〇〇門以上の砲兵群」 対するわが連隊の装備は、九〇式自走野砲一門、三八式野砲一門、大隊砲四門の外、重機関銃約一五梃に過ぎない。 ...
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一九四五年八月六日夜、原隊復帰命令が出た。候補生一行が乗車した深夜の臨時列車には、海拉爾方面からの民間人たちで満員の有様であった。不審に思って訊ねた。 =軍からの緊急避難命令で、当座に必要なものだけ持って乗車した= という。戦後、関東軍は民間人を護らないで悲惨な目に遭わしたと非難されたが、第四方面軍のようにソ連軍が侵攻する三 ...
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夢は一転して、果てしなく枯草がひろがる荒涼とした冬景色の平原に、私は佇んでいた。二転した夢は、見知らぬ三、四人の白人が、冷えびえとした部屋でソファに腰をおろして、何事か話し合っていた。さらに三転した夢で、私は不安を押えながら、故郷の我家に辿りついた。 なぜか勝手口に回り、戸を開けると台所の板の間に父母が並んで座っていた。夢の ...
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第一章 一度だけ見た正夢(一九九四年一〇月) 一、死の淵を覗く 風土病にかかり高熱と下痢のために入院して、二ヵ月が過ぎようとしていた。 夕方、六人収容の病室から向いの一室に移された。私だけである。なぜだろうかと考えたが、意識が混濁して考えが纏まらない。電灯がともった頃、数日前若い女子社員がこの部屋に運ばれて来て、夜明けを ...
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