学校もこれまでの一号線校とラス・ペタ校が合併してヌエバ・エスペランサ校(本部校)となり、パイロン校とリオ・グランデ校も合併しパイロン校(分校)となった。僕の家から本部校までの距離は約8キロもあったので、学校への行き帰りに馬車を利用した。 帰り道は、ドラム缶2個を乗せて水汲みをするのが日課であった。友人の中には農業を嫌い都会に憧 ...
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自分史=ボリビア開拓地での少年時代=高安宏治=(5)
母にブラジルの都会に再移住する、と告げると、母は大変喜んでくれた。11年間のボリビア移民地での精神修養、僕にとっての「無形の財産」となっているものは、[一人の女性の縁の下の力持ち]から学んだ今は亡き母の言葉である。「人一倍働けば必ず成功する」―この言葉は、困難に直面する時に、いつも僕の胸に蘇る力強い言葉である。 母は、沖縄県本 ...
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時間が経つに連れ、原始林の中に三線の音が鳴り響き、老若男女が一体に成り、カチャーシーで喜びを分かち合っていた。沖縄に居たころは、「ユイマール」という言葉さえ聞いたことがなかったが、ボリビアに来て初めての体験であった。一人の力では出来ない仕事を隣近所、あるいは同郷人たちが力を合わせて成し遂げていく、いわゆる「共同作業」である。 ...
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密林の中には、野生の吼え猿、七面鳥、山アヒル、名も知らない野鳥の群れがグァーグァー叫び、山の中を響かせていた。まさに野鳥の天国である。イノシシ、鹿、山猫、大蛇等の動物にも出会った。豹、トラも出没するという話は聞いていたが、猛獣が恐ろしい、怖いという恐怖感はそれほどなかった。 原始林の中の怖さを身にしみて感じなかったからだと今に ...
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その数日後、第7次移民者に与えられた配分地は、ラスペタ(山亀)区地域と名づけられた。この地域の一部には、その昔牧場があったという跡地がそのまま残っていた。子牛が生まれる度に野獣に襲われ、牧牛を増すことができずに牧畜業をあきらめ別の場所に移動したという。その話は20~30年前の話だと聞かされたが、こんな原始林の中にすでに移民した ...
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ボリビアの原始林に囲まれた入植地は、まさに昼なお暗くという感じだった。蚊はびっくりするほど大群で襲ってくるため、蚊の多い夏の方が、沖縄の米軍の払い下げH・B・Tカーキーのジァンバー長袖などを着込んで厚着をし、道を歩く時は木の葉で蚊を追い払いながら歩いていた。 日が落ちて暗くなるとますます蚊が多くなり、仕事で疲れていても緩める ...
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