ここでの仕事は朝七時から夜の十時、十一時ぐらいまでが当たり前だった。昭和三十五年(一九六〇年)に結婚し、妻も一緒に兄夫婦の御世話になりながら一男,一女が生まれた。 妻は一世だが、二歳でブラジルに来たので二世同様、日伯両語を話せるので、彼女にはずいぶんポルトガル語を教えてもらった。兄の工場ではみんな沖縄語を話していたが、私はな ...
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自分史 戦争と移民=高良忠清=(17)
私達の渡伯はチョッと早すぎたので、渡航費は自費負担となったわけだ。洗濯屋は私もブラジルに移住することになったので、やめることにしたと社長に伝えた。意外にも社長は、私が配達を始めてから車の経費も非常に軽くなり喜んでいたそうで、最後の月給に足して励ましの言葉と餞別までくれた。 洗濯屋の仕事は辞めたけど、まだブラジルに行く日もまだ ...
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軍の講習をうけて、桟橋内で働く免許書を取り、船の荷物を上げ下ろしする仕事をすることになった。一生懸命働いて三千円の月給を貰い、全部母に渡した。それを頼りにしていた母はいつも喜んでくれた。 あの頃、若者達の憧れは運転手だった。アメリカ軍の基地の中で、たくさんの仕事があって給料もよかったからだ。 昭和二十七年(一九五二年)に定 ...
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少年時代の最後の闘い 学校の行き返りはいつも一緒だった、私の同級生たち、高良政雄、上原幸一、上原正次郎は、皆近所に住む友達同士だった。 政雄君は他人に命令するのが好きな気性で、私は他人から何か命令されるのが大嫌いな性分だったから、二人の間では口喧嘩が絶えなかった。口喧嘩しながらも、友達であることにかわりはなかったが、中学三年 ...
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お国のために潔く死んで来いと教育されながらも、いざとなれば弱いものを犠牲にしてでも生き永らえたく思う者もあった。それが戦場の悲劇だ。 それにしても、物資に乏しい日本はあの悲惨な戦争を勇気だけで戦った。犠牲になった人達にはほんとうに気の毒ではあるが、日本が負けてよかったと私は思う。 井の中の蛙、大海を知らず、と言うことわざが ...
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不吉な予感 照屋幸栄君のお母さんは後になって、あの日に限って何か不吉な予感がして息子を皆と一緒に行かせなかったと言ったそうだ。 それを知りながらなぜ皆を止めなかったのだと幸栄君はお母さんを責めたらしいが、お母さんはただ予感であって本当に当たるかどうかは知らなかったと答えたらしい。 戦争からは生き残ってきた少年達も、まだあち ...
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私の上級生、下級生達も勉強よりも学校づくりに忙しかった。こうしてやっと皆が雨風に濡れず勉強が出来るようになった。 夢 自分の村に帰って間もなく、母がアサ早く起きると同時に、「夕べ、祖父母と叔母と二人の子供達が長田の防空壕で死んだ夢を見た」と言った。 祖父母は自分達はもう年寄りだからこのまま自分の防空壕で死ぬと云ってい ...
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お酒 厳しい物資不足が続いた終戦直後には、住民が命をつなぐほどの食料はアメリカ政府によって支給されたが、他には何も無かった。 島のお酒好きな大人たちは、こんな時チョットでもあればどんな苦労も忘れられるのにと、お酒不足を寂しがった。 そこで大人たちは日本軍が畠のあちこちに残したアルコールやひまし油の入ったドラム缶を見つけ出し ...
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石川まで母を訪ねるには所々自由に入れない禁止区域があったので、兄は役所で旅行証明書を貰いに行った。 しかし、石川までの証明書は出してくれませんでした。宜野座までなら、ということで、とりあえず宜野座までの証明書を貰って石川を目指して出かけることにした。 照屋幸栄と那覇出身の青年も、石川には自分達の親戚が居るから一緒に行きたい ...
続きを読む »自分史 戦争と移民=高良忠清=(9)
「これを着て退院しなさい」と言われた時は皆大笑いとなった。何しろその軍服は、小柄な私が二人はいってもまだ大き過ぎるぐらいだった。兄が「それは俺が着るから、おまえは俺のものを着なさい」と言ったので、結局、私は兄の服を着て退院した。 そこで、君達は未成年だから孤児院を探すようにと言われたが、兄は俺たち孤児院には行きません、自分た ...
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