自分史 戦争と移民=高良忠清

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     それで軍医が診察に来て、すぐに注射をしてくれたし、おかゆも用意してくれた。それから次第に破傷風も良くなっていき、口も開けるようになってご飯も食べられるようになりました。  私はそこに入院して以来、便

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     母は、叩かれても言うこと聞かずその人達について行こうとする姉を連れ戻そうと追いかけて行き、返ってこなかった。  終戦になってからの話では、沖縄人に変装したアメリカ二世が、我々の来た方を指して、向こう

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     福地(フクヂ)村の入り口に馬小屋があって、そこに入ってみると、そこにも数人の住民や兵隊達が隠れていた。  その仲間に入れてもらい、又数日がたった頃、偶然兄が四、五人の兵隊と一緒に、一袋のお米をここに

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     ちょうど村の境目の十字路に差し掛かると、そこには五、六人の住民と三人の兵隊が倒れて呻いていた。だが、明日の自分の命も分からない怯えた避難民達は、それを助けようともせず、見て見 ぬ振りをして通り過ぎて

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     二日後、あの日聞いた爆発音は、やっぱりうちの防空壕のすぐ近くで、近所の壕は崩れ落ちて二家族が生き埋めになってしまったというニュースを誰かが持ってきました。  叔母さんはそれを聞いた翌日、「親同然の舅

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     その間、私の家族は防空壕で避難生活を続けていましたが、空襲がおさまる夕方ともなれば母は食事の支度にテンテコマイとなります。昼間は煙を立てることは出来ず炊事も暗くなるのを待ってからという毎日が続きまし

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    戦争間じか  私が十歳になった頃、第二次世界大戦が沖縄でも始まるということで、日本軍隊がゾクゾクとやって来た。  しかし軍隊の兵舎の準備も無いまま、学校、全ての公共施設を徴用、そして民間の家々も利用し

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     私は昭和十年(一九三五年)、沖縄那覇市字小禄(オロク)屋号新大屋(ミウフヤ)の七男として生まれました。長男から三男までは昭和十一年(一九三六年)に移民としてブラジルにわたり、四男夭死、残った五男、六

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