はじめに、これから記述する拙文は農業大国ブラジルに夢を馳せ、百十数年もの歳月をかけ 移り来て培われた我が同胞先達の偉大な業績に伴う移民史にあって、キノコ栽培は余りにも 小いさな存在の農業集団に過ぎません。 しかしそこに生きた我々は日頃の勤勉と相互扶助や日本や台湾からの技術移転により、独 自にそれなりの経済効果、社会貢献, 雇 ...
続きを読む »連載小説
安慶名栄子著『篤成』(45)
その頃になると、私はもはや父が苦しんだり、痛みを感じたりしないようにと願うばかりでした。父は特に宮本武蔵のビデオを見るのが好きでした。私は一緒にビデオを見ながら機会ある毎に漢字の読み方や意味を聞いたりして会話をするように心がけ、父は気長に説明してくれました。 92歳になった父は、主によし子姉さんに介護してもらっていました。よ ...
続きを読む »安慶名栄子著『篤成』(44)
すると、彼女の反応にはショックでした。「ああ、そう。母は私を育てずに他人の子供を育てたのね」と。 彼女は母親に対して深い反抗心を持っていたと感じました。どんなにつらい思いをしておばあちゃんは私たちに接していたのか、彼女には知る術もなかったのです。私はその話をしてあげました。その後、私たちは親しくなり、彼女は母親のことをもっと ...
続きを読む »安慶名栄子著『篤成』(43)
第32章 夢のパンタナール 姉のよし子が一緒に旅行してくれることが父の一つの要望でした。父は、「自分はもう年寄りで、もしもの事があったら、栄子が一人で介護をするのは気の毒だ」と思っていたのです。 私たちはまだパンタナールへ行ったことがありませんでした。それでカーセレスという所へ行きましたが、今回はよし子姉さんも一緒でしたの ...
続きを読む »安慶名栄子著『篤成』(42)
第30章 久米島 父の姪の結婚式に招待され、私たちは再度沖縄を訪問しました。父の甥や姪たちは父を楽しませるために何をしていいのか迷うくらい色々ともてなしをして下さいました。 その機会には、美味しい物をたくさんご馳走していただいた外、船で久米島という風光明媚な離島まで行きました。 その島のビーチは亀の甲羅の形をしており、本 ...
続きを読む »安慶名栄子著『篤成』(41)
いつも仕事に追われ、雑誌や新聞はおろか、本も読まなかったので、物知らずな私は、「クスコ? クスコってどこにあるの?」と聞きました。「ペルーだよ。マチュピチュと同じところだよ」と父は直ぐに答えました。 やっとわかりました。マチュピチュという名前は聞いたことがありましたが、どこにあるかさえ知らなかったのです。そして行ってみました ...
続きを読む »安慶名栄子著『篤成』(40)
クリチーバでは、父は本当に物知りだという事を思い知らされました。その歴史を探るために町巡りをしたかったからです。パラナグァーの電車に乗った時に父は、その線路の開通式の初運行には、安全確認のためエンジニアが一人で運行したという事まで知っていました。 様々なところへの旅は、父を喜ばせようとして始まったのですが、どこでも変わった所 ...
続きを読む »安慶名栄子著『篤成』(39)
父の親友が亡くなった後も、私たちはよくバウルーまで行って新垣さんのご家族の皆さんを訪ねて親しく付き合いました。さまざまな時代の様々なきっかけにより、バウルーという町はとても親密な場所になりました。 私は数回スペインへ行く機会に恵まれましたが、そんなある時、バウルー出身のマルシアという方に出会い、彼女は私の家族全員と親しくなり ...
続きを読む »安慶名栄子著『篤成』(38)
するとパイロットは着陸する前に首都の上を一周して下さいました。上から見るブラジリアの眺めは誠に見事でした。世界に名の通る建築家ニーマイヤーの建築物を父の側で空から眺められた経験は生涯忘れません。 父が85歳を迎えた時、サンカエターノ・ド・スールのとあるクラブで大きな祝賀会を催しました。父には内緒でした。その時のために20年以 ...
続きを読む »安慶名栄子著『篤成』(37)
大田司令官はほかの将校たちと海軍壕の中で自決しましたが、その日の数日前に、沖縄県民の悲惨な状況を見過ごせないとして、「沖縄県 民斯く戦えり、後世に特別のご高配を賜らんことを」と苦しんでいる県民への後世の支援を懇願する電報を日本海軍次官へ送っていました。こ の電報は後に有名になり、沖縄の人々は大田司令官への深い敬意と感謝の気持ち ...
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