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連載小説

連載小説=わが移民人生=おしどり来寿を迎えて= (83)  山城 勇

 山戸は、急遽母国沖縄に妻子を連れて帰国しました。1927年の事でした。  その帰途四国の高知県に妻の実家を訪ね、3ヶ月滞在した後ブラジルに帰省した。  2度目の訪日は1968年で、米軍政の統治下にある郷土を再度訪問し、その変貌ぶりに驚愕したという。 篠原恵美子―― 父は、年老いても記憶力が良く、TV、新聞記者とのイタービューに ...

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連載小説=わが移民人生=おしどり来寿を迎えて = (82)=  山城 勇

 サンパウロ到着の際には食べる物も無く金は使い果たし、二人共駅で思案に暮れた。  幸運にも駅の赤帽が気付かって呉れて二人は日本人経営の小さな農園の矢崎節夫さんと云う人に会い、仕事を見付けるまでお世話になった。  二人は仕事探しに毎日出かけた。  そして或る日山戸はアウローラ街の右側、イッパチは左側の通りを尋ねている中に山戸は歯科 ...

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わが移民人生=おしどり来寿を迎えて=(80)=山城 勇

 特に戦後コロニア社会を席巻した勝組・負組抗争の混乱の中にあって、その正常化を叫びながら母県の戦災復興と救援運動、更に県人組織強化運動に多くの同志と共に寝食を忘れて活躍した。  1950年前後においては、その戦災救援組織の中心人物の一人として、上原直勝、花城清安らと共に非凡な手腕を振って全伯沖縄海外協会=戦後の沖縄県人会の創設に ...

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わが移民人生=おしどり来寿を迎えて =(79)=山城 勇

 翁長の意志を継いで現在は長男英雄『ジョルナル・ブラジレイロ』編集長、元植木大臣の補佐官をして10年間一緒に働いた)を筆頭に四男一女みんなジャーナリストとして新聞関係で活躍しています。    現在、孫14名、ひ孫が11名で翁長一族は今やブラジルの大地に完全に根をおろしております。 ―ユキ夫人は、このように話を締めくくっ ...

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わが移民人生=おしどり来寿を迎えて =(78)=山城 勇

 その当時、総領事館職員となり、また報道機関に務めていた翁長助成は、この問題を解決する立役者として多くの共鳴者と共に立ち上がり、球陽協会を結成し、その初代会長となった。  即ち、県人会創立50周年の原点である球陽協会が1926年8月に結成されたのである。  第一回笠戸丸移民以来18年目にあたる。  然もその目的が県人同士の親睦だ ...

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わが移民人生=おしどり来寿を迎えて=山城 勇=(77)

5  移住80周年記念誌の編纂    私は、1975年3月以降、在伯沖縄県人会の役員にあてられて1990年まで15年間理事・監査役・副会長・会長として働いてきた。    特に1978年移民70周年記念祭典と会館落成の祝典に際し、記念誌作りの手伝いから毎年の広報(協和誌)作りの専任みたいになってしまった。  幸 ...

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わが移民人生=おしどり来寿を迎えて=山城 勇=(76)

 空港へ数回に亘り往復し、領事館に依頼しても埒があかなかったこれら別送品が、州知事の一声ですぐさま解決OK。  80周年記念祭に於ける思わぬハブニングがあったことは生涯忘れることのない思い出である。  その後、それぞれの受賞者を代表して、謝辞がのべられ、宮城宏光副知事の高らかな万歳が三唱され、最後に照屋弘副実行委員長の閉会の辞で ...

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わが移民人生=おしどり来寿を迎えて=山城 勇=(75)

 こうした先人達の努力のお陰で県人移民の渡航は正常化され、それ以降の、いわゆる昭和初期移民がサントス=ジュキア沿線、カンポ・グランデ、サンパウロ州奥地、そしてパラナ州へと怒涛のように押し寄せたのである。  さらに戦後においては、沖縄戦の戦災救援運動を展開してきた先輩たちが、移民受け入れを大きな目的にして、1953年3月に全伯沖縄 ...

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わが移民人生=おしどり来寿を迎えて=山城 勇=(74)

 同氏は、「十七八節」にはいくつもの解釈があるが、阿弥陀如来四十八願の十七願・十八願に由来して、人生の臨終に当たっての来迎を待ちわびる悟りの歌、と捉えて開拓先亡者追悼に適している、と推奨したのである。  こうして献楽の儀式に想応しい古典音楽を選定して頂いたのであった。  そこで野村流音楽協会ブラジル支部と同古典音楽保存会ブラジル ...

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わが移民人生=おしどり来寿を迎えて=山城 勇=(73)

 然もその高校選抜チームの中に糸満市喜屋武出身の慶留間君がいた。  彼は、字米須のウマイキーナングスク生まれのオバーの孫にあたる少年ということで特別親近感を感じ、うるま会館に招き激励会を催し交流を図った。  これが契機となり1989年7月30日にはサンベンナルド・ド・カンポ市から特別に招待され、再度高校選抜チーム17名が来伯した ...

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