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連載小説

わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(31)

 即ち「海外雄飛」、かつての満蒙開拓青少年義勇軍の満州開拓時代やハワイ県人移民の現実の姿を自分の身に重ね合わせて見ながら、未来への人生を模索するのであった。  しかし、千枝子にそんなことを語ったこともハワイからの手紙に認めたこともない。同調するだろうか? あるいは反対せんだろうか?「狭い沖縄」、「占領軍圧政の島」、「極東軍事基地 ...

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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(30)

 アメリカ陸軍史上空前の紫心部隊、勲章部隊、勲功部隊として二ユース映画になったことは申すまでもない。この「442部隊の実践記録」という本と、「第442部隊」の本2冊がその部隊に所属した兵士たち自身が書いているので機会があったら見てごらん、と云うことだった。第442二世部隊の異名とする功績部隊とはアメリカ陸軍史上未曾有のことだと多 ...

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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(29)

 翌日予想通り早朝から雨だった。照屋さんの予想は的中したわけである。農場を一巡した彼は出荷用箱の組立作業がある。続いて納期の準備をして雨後の多忙に備える。ほとんど午前中にこの作業が終る。  午後少々小雨となったので乗用車で隣の村ミキルア地区の風車による水の汲み上げ現場視察を行う。始めて見る風車の仕組みは珍しいが暴風の多い沖縄では ...

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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(28)

 生産と消費を直結させ、自分の創意工夫を原点に「儲かる農家」の実践躬行、これが究極の目的であると彼は誇らし気に語る。  こうした理念に立って照屋さんの「理論と実践」は有言実行の代表人物として皆さんから尊敬されていた。それに目の敵としてよく口にする言葉は日本の「官僚主義・官僚精神」の改革であった。いわゆる日本はタテ社会で必要のない ...

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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(27)

 全く遺憾なことであるが高齢者にとってはこれでよいとのことである。それでも若い頃よく働き稼いだものだ。東京で医学を学ぶ弟に資金提供し医科大学を卒業させ医学博士にまで育て上げたことは自分の誇りである、と誇らし気に語っていた翁長さんの兄弟愛に感動した。その頃東京の慈恵大学病院の院長である遠藤義雄医学博士がその人であった。  翁長さん ...

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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(26)

 アメリカ合衆国国際農業青年交換計画制度もその一つでハワイには国際協力センター支所がある。その制度とセンターを利用しハワイ沖縄県人連合会とハワイ大学共催による戦災沖縄の農業青年研修をハワイで6ヶ月実施する目的で1953年から実施されていた。  そして県人連合会や市町村人会が青年達の受け入れ研修農家の世話及び指導アドバイスを大学側 ...

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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(25)

 沖縄の現実を凝視した場合、今日経済的、精神的な面においては、更生への一途を辿りつつあるとはいうものの青年をして、建設的な意欲をみたしうる施策が講じられていないことは、はなはだ残念であり、この運動こそ青年に希望を与え、明日の沖縄を建設していくための新しい青年運動として期待し、本土派遣とあわせて沖縄自体により建設隊を組織し、青年隊 ...

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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(24)

 従って学校の運動会、村体育協会の陸上競技大会・綱引き・村芝居に至るまで青年会が活動せざるを得なくなり教職員会の行事以上に多忙となった。糸満地区には東風平村、兼城村、高嶺村、糸満町に三和村の1町4村の町村が一地区を形成している。その地区青年会が毎年11月初旬には地区体協と共催して陸上競技大会を開催した。おそらく県内各地区もそうで ...

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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(23)

 その時20歳の年齢に達していた私は、農業を1年生から学ぶことになった。学歴社会の日本ではこれ以外の選択肢がないことを大先輩から教えられての人生処方であった。  在学中4~5歳も年上ということで同級生から兄貴分視され、畜産主任の先生からは家畜の飼育係りに任じられ、時折授業中に質問を投げかけられたり、生徒会の会長に推されたりする存 ...

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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(22)

 そこで姉が母の頭の血をふくために壕内にタオルを取りに行ったら、末子の光男(当時赤子)が泣いていたので連れだしてきたと云う。そのまま壕入口に銃をかまえて待つアメリカ兵たちに捕えられ、軍用車まで2キロ以上歩いたと云う。この自然洞窟壕には22家族67人が避難していたが、ほとんどが集団自決で命を絶った。  その他に米須地域には少なくと ...

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