「駈けろ!」 私は上等兵の手を把んで眼下の露出した岩盤を目がけて背を丸めて駈けはじめたが、大小の石塊に足を取られて転びそうになる。気はあせっても足が進まない。五十メートル下に電柱が立っている。すぐその下が司令部入口だった。そこまで行けばしめたものだ。 電柱は電灯線と電話線で、全島に張りめぐらされている。立木をそのまま利用したり、 ...
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パナマを越えて=本間剛夫=36
終日、地上作業で過ごす農耕班が逃げ送れて最も多くの犠牲者を出している。敵は北から来ることは殆どない。島の東部から南部にかけて聳える海抜三百メートルの三角山――兵隊たちは、そう叫んでいる――の山膚に添って上昇し、頂上まで来るとこんどは急斜面すれすれに急降下して、あたりかまわず機銃を掃射して左旋回し、あっという間に姿を消してしまう ...
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護送兵にしても、少年のように小柄な(病気でなければ、美少年のはずの)初々しい仲間の哀願をふり切って去ることができないでいるのだ。私も患者の憐れな姿を見ると、隊の事情が許すならば、患者の希望をかなえてやりたいと思った。しかし、それは例外の計らいだ。 「暫く待ってなさい」 私は護送兵を伴って医務室にとって返し、三浦軍曹に事情を説明 ...
続きを読む »パナマを越えて=本間剛夫=34
三浦軍曹の声が止んだのは、護送兵が部隊からかき集めた煙草か甘味料をせしめたからだろう。 このような場合、私の同僚たちは何気なく座を外す。先任仕官が拒絶するのを、その部下である兵が引き受けるわけにはいかない。非人道な鬼のような振舞いに口をさしはさむことは軍の秩序を乱すことになるからだ。 私は明るい光線の届く医務室に入った。一目で ...
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しかし、司令部医務室には増員すべき軍医も衛生兵の余裕はない。その上、南方から患者が上陸してくる。マーシャル、カロリン群島以南の戦闘は友軍の敗北によって三カ月も前に終息しているはずだったが、不思議なことに、敗残部隊の鰹船や筏を操り、幸運にも敵機の爆撃を免れた患者たちが漂着して患者はふえる一方なのだ。 私たち衛生兵の日課は回診、施 ...
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私は正しい判断を述べたと思った。 しかし、中佐の面を不快な色が走った。中佐は、日本人は世界のどこに住もうと、日本人であることに変わりがある筈がない、と信じているのだろう。アメリカやブラジルの日系二世たちが、父親のそうした古く、単純な考え方の下で、如何に悩んでいるか。とくに、アメリカ生まれの日系人があくまでも日本人としてしか処遇 ...
続きを読む »パナマを越えて=本間剛夫=31
中尉は帝国軍人として、それがいいたかったのだ。まだ少年の弟を残している彼は、皇軍の選ばれた士官として殉国の忠誠心に培われたのだから、私の二重国籍の不純さは、私の背徳思想を現すものであり、許し難いのだろう。 返す言葉もなく、立ち上がった。 私は日本に帰ってから日本人であるよりも、むしろブラジル人でありたいと考えるようになった。日 ...
続きを読む »パナマを越えて=本間剛夫=30
確かに衛生兵という職務は患者に安心感を与え、慰安を引き出すものだ。兵は勿論、将校さえも衛生兵の言動が病状を左右する例は枚挙にいとまがない。 私が患者に近ずくと、今まで眼を閉じ、身じろぎもしなかった兵たちの間から、かすかなサワサワという動きが聞こえ始める。そして、回診を終えた私の背後から重い淀みが襲いかかるのを感じる。また彼らは ...
続きを読む »パナマを越えて=本間剛夫=29
会場で起こった爆音は低空で豪の上を舞っているらしく、いつになく執拗に患者の横たわる洞窟の空気を震わせた。何かが、起こりそうだ――不安が、朝の回診を始めたばかりの衛生兵たちを襲った。 「編隊でありますか」 外光がほのかに届く病床に横になっている上等兵が怯(おび)えた眼を私に向けた。我々の不安はそのまま患者たちに伝播するらしく、回 ...
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流離 = 第一部 1 今日も回診の時刻になると、例の如く敵の偵察機がやってきた。いつも午前と午後、殆ど同時刻に現れるので我々は定期便と呼んでいた。敵は抵抗力を失っていると甘く見ているからに違いなかった。 ブリキの薄金を叩くようなキンキンと頭の芯に響く偵察機が、周囲十六キロしかない孤島の上空を何回か低空で旋回する。数 ...
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