そんな同船者を、私は次々と松岡家に連れて行った。春子の人柄に安心していたからであり、春子も大きく受け入れて、昼食を度々振舞ってくれたりした。旅行者や駐在員ではなく新来移民と分かれば、移民という連帯感と、来たばかりの若い移民に対する哀れみからか、一応成功した先輩移民達の多くが、そんな若者を食事に呼び相談にのり、また仕事を世話した ...
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花嫁移民=海を渡った花嫁たちは=滝 友梨香=34
その日の大使夫人の横柄な態度に、裕次郎が立腹し、 「おい、お前さんこの家の女主人らしいが、ここじゃ大層な家に住んじゃいても、日本に帰りゃ長屋にでも住んでるんじゃねえのか。ここでいい思いができるのも、ここにいる国民の払っている税金のお陰だろうが。勘違いしちゃいけないよ、いったい手前が何様だと思ってやがるんだ。こんなところで水一杯 ...
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また、八〇年代半ば頃に赴任していた総領事夫人も例外ではなかった。このような人ばかりではないにしろ、昔から、こういう僭越さがどの州で働く日本の駐在員にもあり、それが日系人との仲を隔てた。これを書くために開いた本の中に、日本政府がらみのウジミナス州のある大きな事業も、「日本人駐在員の僭越な態度に優秀な二世達が耐えられず職場を出たが ...
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この住み込み先のアクリマソン区から日伯文化協会へは、歩いて十五分ぐらいで行け、そこでポルトガル語科に入学するのが目的であり、ブラジル語をア、ベ、セから学びはじめることにしたのだ。 サンパウロ市内に、セー教会という百五十年をかけて建造した大きな教会がある。その前の広場がプラサ・ダ・セーで、ここに各地方への方角を示す起点がおかれて ...
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人に聞いて行けたとしも、おそらく降りるのは松岡宅に遠いバス停であり、そこから帰れないのではないかという心配が頭に浮かび、大きな街路樹の覆い繁った高級住宅街の夜道を歩くことを考えただけでもゾッとした。私は時代と熊五郎に教えられたバスに何とかして乗りたかった。 「この国の夜は恐ろしいのよ、日暮れに外に出ていると、夜の女と思われるよ ...
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ブラジルの下町の家々は、いまでもこのような色彩に塗られているが、それは強い太陽に嫌味なく合って、ある種のロマンさえも思わせてくれる。通りに面する窓のある部屋はサーラと呼ぶ居間であり、その奥が台所二階には二部屋と手洗いがある。ブラジルに着いていきなり高級住宅街の邸宅に居候として住み始めたこの頃の私は、これが棟割長屋の間取りである ...
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その程度の語学力でありながら、池之坊のバザーでバッタリ出会った熊五郎に会うために、私は街へ出ようと考えた。そうしなくては私になんの展開も訪れない、自分の前にある藪は自分で切り開かなくては進めない、と諺のとおり考えたのである。 行く先はタグア通り五十一番地。簡単なおぼえやすい通りの名でメモしなくても覚えている。何とかしてそこを ...
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といってもブラジル人成功者の娘との縁も簡単なものではなかったはずで、簡単に親しくなれるのは日雇い人夫の娘であり、その虜になって結婚した青年も居たかも知れない。ブラジル人の娘のなかには実に魅力的な美しい娘がいるのだから。しかし、おおかたの青年が、「成功するまでの辛抱を分かち合い、共に耐えて生き抜いてくれるのは、祖国日本からくる花 ...
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次女の時代は、サンパウロ大学法科出の才媛であったが、勤めを止めて春子の花舗を手伝っていた。彼女いわく、 「日本の女は、饅頭ひとつ作れん、鶏は食べるのに絞めるのは怖いと、可哀想だとよ」と言い、鼻の頭と唇の端で笑った。 一九六七年の秋、時代は春子の反対を押し切って一世の青年と結婚をした。農業移民で来たが、重労働に背骨を傷めて続けら ...
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松岡家は大家族で移住したらしく、兄弟のそれぞれが、独立して成功しているということが慣れるにしたがい分かり、出会うその成功者の誰もが土佐弁であり、土佐を全く知らない二世の息子や娘にいたるまで土佐弁で、大阪弁しか使えなくなっている私は赤面するばかりだった。 春子の孫達はまだ六、七歳だったが、一つのコロニーをなしている土佐弁の中で育 ...
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