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“日本移植民の原点探る” の検索結果 – ページ 10 – ブラジル知るならニッケイ新聞WEB
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検索結果: 日本移植民の原点探る

日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (37)=いよいよ本格入植開始=〃原住民〃のような先発隊

ニッケイ新聞 2013年9月3日  青柳構想に夢を抱いて南米転住を図った輪湖だったが、最初からレジストロ地方に入植した訳ではなかった。『ロッキー時報』での経験を買われ、南米初の邦字紙『週刊南米』(1916年1月)の創刊をサンパウロ市で手伝った。その創立者・星名謙一郎もまたハワイ、北米本土から転住してきた新教徒であった。続いて同年 ...

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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (36)=排日の北米見限った輪湖=「土地のない所根張れず」

ニッケイ新聞 2013年8月31日  第一次世界大戦は日本移民導入に決定的な役割を果たした。日用品生産すら支障が生じた欧州に向けて1915年から食糧品、生活物資輸出が大幅に増え、サンパウロ市の工業地帯は活況を呈した。労働者は長時間労働を強いられ、必需品すら輸出したので物価が高騰した。  1914〜23年の間に賃金は71%しか上昇 ...

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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (35)=手を焼く伊系移民の実態=スト破りに日本人導入?

ニッケイ新聞 2013年8月30日  桂植民地建設当時の政治社会情勢に関して、1914(大正3)年にブラジルを実地調査した伊東仙三郎は、興味深い分析を披露している。  ブラジル為政者側の思惑としては、台頭甚だしいドイツ移民をこれ以上入れる危険性と、イタリア移民による労働運動激化に手を焼き、彼らと結託しないであろうスト破りに使える ...

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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (34)=桂に続け! 続々と植民地誕生=「さあ本番」で渡航中止

ニッケイ新聞 2013年8月28日  水野龍が最初、サンパウロ州政府と契約を交わそうとした時、「単独青年」を想起していた。それまで北米や東南アジアへ送られていた出稼ぎ移民はみな単独青年であり、それが当時の移民会社業界の常識であった。  だがサンパウロ州政府が定着性を重視して契約に「3人以上の稼働労働力を有する家族」という条件を付 ...

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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (33)=青柳は日本政府の手先か=移民の側から見た人物像

ニッケイ新聞 2013年8月27日  明治のお歴々を後ろにした青柳は、当時の移民の側からすると、どんな存在だったのか。また「日本人植民地」を前面に出して事業を進める海興のやり方に対して、内乱に過敏な中央政府の雰囲気を感じ取っていた当時のインテリ移民はどう見ていたのか。  神戸大学附属図書館サイトによれば、サンパウロ市在住の「海谷 ...

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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年◇戦前編◇ (32)=リベイラ沿岸の神様・北島=平野、上塚植民地創設の素因

ニッケイ新聞 2013年8月24日  西館正和は「父はこちらに来るまで百姓なんてしたことがない人でした」。父繁太郎は元々、軍師団の戦死者の霊を祀る、靖国神社から分祀をした旭川招魂社の管理人をしていたという。  「1933年にジポブラに入った。ちょうど20周年だった」。西舘は日本で小学3年を終えて4年に入ったところで渡伯した。当地 ...

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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (31)=日露戦争従軍者が多く参加=〃鎮台〃に誘われ桂入植

ニッケイ新聞 2013年8月23日  90歳前後の二世がゴロゴロいるリベイラ河沿岸地方だが、北海道生まれの一世、西館正和さん(90)=イグアッペ在住、3月13日取材=も健在だ。  前節で紹介した桂小学校について「初めて学校に行った日、友達はみんな二世だった。パパイがリベイロン・プレットのお土産として買ってきてくれた編上げの皮靴に ...

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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (30)=小学校、組合、教会も=初物づくしの桂植民地

ニッケイ新聞 2013年8月22日  桂初入植の翌年1914(大正3)年には自治組織として「桂人会」が設立された。日本人会の嚆矢といえる存在だ。  『イグアッペ植民地創立二十周年記念写真帳』(1933、安中末次郎)には《当小学校はブラジルに於ける日本語小学校の嚆矢なり》と高らかに書かれている。桂人会の経営によって、1916(大正 ...

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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (29)=初植民地創立の気分に=満ち満ちる明治の気魄

ニッケイ新聞 2013年8月21日  農業経験も資本もない〃バガブンド〃が、サトウキビ栽培や米作で好成績を収めたことで、後発者に大きな勇気と好印象を与えた。入植者を最初は海興の試験場のカマラーダとして使い、まずは経験を積ませ次に分益農にしていくという制度が成功した。  半田知雄は《この30家族の成功は、その後の植民にとって大きな ...

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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (28)=〃バガブンド〃が先駆者に=「失敗したら次はない」

ニッケイ新聞 2013年8月20日  桂植民地は当初から予定されたものでなく、時の隣接州の内乱とレジストロ地方開発の大きな勢いに巻き込まれるような形で、郡長からの提案で後から追加され、結果的に「最初」となった。「植民地の試験場」として、ここでの経験が後に影響を与えていった。  植民事業の影の立役者だった桂太郎首相が1913年10 ...

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