ホーム | 連載 | 2003年 (ページ 6)

2003年

移民のふるさと巡り=3千キロの旅=1=パラグアイ唯一―契約雇用移民地―アマンバイ、47年の歴史

10月8日(水)  今回で十八回目を迎えた県連(中沢宏一会長)主催「移民のふるさと巡り」の一行百十九人は、ブラジルとパラグアイの国境、アマンバイ移住地、南マットグロッソ州、そしてサンパウロ州のリンスを九月二十五日から十月日まで六泊八日の日程で訪問した。パラグアイの移住地のほか、セーラ・ダ・ボドケナ国立公園のボニート、そして最近脚 ...

続きを読む »

日系人とは何か=安立仙一、渡部和夫 半世紀の交錯(4)(最終回)=日本文化を心に宿すもの=これ全て新〃日系人〃?!

10月7日(火)  七〇年代に異端であったその考え方は、文協改革委員会最終報告書にもあるように、現在の改革の底流となっている。  この報告書では、日系コミュニティーの新たな定義として、「日本人の血をひく人のみで構成されるものではなく、ブラジル社会のなかで、日本文化を精神や心に宿す人の集まり」とその範疇を広げている。  上原幸啓文 ...

続きを読む »

日系人とは何か=安立仙一、渡部和夫 半世紀の交錯(3)=本の日本人とは別=コロニアはブラジルの一部

10月4日(土)  「七二年だったか、パラナ州のゴルフ場で、ボールを盗った少年を進出企業の駐在員が射殺した事件があったんですよ」  渡部氏は日系人のアイデンティティーについて考えるきっかけとなった一つの事件を挙げる。当時、日本がアジアなどへの経済進出で〃エコノミックアニマル〃と揶揄されている時代。  「ブラジル人が我々日系人を日 ...

続きを読む »

日系人とは何か=安立仙一、渡部和夫 半世紀の交錯(2)=渡部氏=文協とピラチニンガ=独自の論で両方に距離

10月3日(金)  中尾副會長、モヂ評議員 會長迫田己代治氏と懇談 書記として安立仙一君を 採用―。 (当時、文協が発行していた機関紙、『會報』第六號〔一九五七年五、六月〕の日本移民五十年祭委員会の会務報告から)  「本当は新聞記者になりたかった」という安立さん。友人の紹介で文協に就職したのは、来伯間もない二十六歳の時だった。 ...

続きを読む »

日系人とは何か=安立仙一、渡部和夫 半世紀の交錯(1)=文協創立時の役目終え=次の50年のあり方模索

10月2日(木)  現在行われている文協改革。大きな動きは未だないとはいえ、従来なかった方針を次々と打ち出し、ようやく胎動を始めたといえる。文協改革最終報告書によると、改革の矛先は団体運営に限らず、日系社会や日系人の定義見直しにも向けられている。その中心的役割を担うのは、コロニアと距離を置く二世インテリの代表とされていた渡部和夫 ...

続きを読む »

楠野隆夫を追悼した企画―「舞踏の軌跡」報告(下)=つの枠に収まらぬ世界―体の読み方は無限

10月2日(木)   メイン会場だったSESCコンソラソン。界隈は「両性具有」の街娼が立ち並ぶスポットでもある。  行き帰りに「舞踏」の男性ダンサーについて思いが及んだ。なぜ、白塗り、女装でしばし登場するか、と。歌舞伎の世界では男性が女性役を演じる「女形(おやま)」は伝統だが。  「本質的に人は両性を持っている。本来の姿を踊れば ...

続きを読む »

楠野隆夫を追悼した企画―「舞踏の軌跡」報告(上)=人種文化の実験場ブラジルで=「人間普遍」を表現

10月1日(水)  今月二日から十二日までの十日間、サンパウロ州各地のSESCで「舞踏の軌跡」公演が開かれた。ブラジルのみならず日本、ドイツから第一線の舞踏家が参加したこの踊りの祭典は、ブラジルの身体芸術分野に大きな貢献のあった楠野隆夫(一九四五―二〇〇一)を追悼する企画でもあった。「舞踏」とは何か―その現況を探りつつ記念すべき ...

続きを読む »

朝川甚三郎不運の半生―終―晩年の最も幸福な一日―教え子たちが慰問に来た

9月27日(土)  二〇〇二年六月十六日。朝川は朝早くからそわそわして気が落ち着かなかった。朝食もとらず、玄関でしきりに外の様子をうかがっていた。旧昭和学院の卒業生たちが大型バス一台を借り切って、慰問に訪れようというのだ。  教え子たちは、予定の午前九時三十分を少し遅れて到着。乗降口から懐かしい面々が降りてくると朝川は一人ずつと ...

続きを読む »

朝川甚三郎不運の半生―8―息子の死後、言動に異常―嫁はひっそり別離

9月26日(金)  「誰かに狙われている」。  テルノリの死後間もなく、朝川の言動に異常が目立つようになってきた。一人息子を失ったショックがあまりにも大きすぎたのだ。  介護に当たったのは嫁のきよ子だった。が、自身、子供二人を抱えて生活していかなければならず、舅の世話と子育て、仕事を両立させるのは不可能に近かった。  もともと子 ...

続きを読む »

朝川甚三郎不運の半生―7―内助の功、妻さきさん=息子は強盗に射殺される

9月25日(木)  旧昭和学院の創立四十周年記念史には、卒業生の名簿が記載されている。八九年の時点で千五百人あまりが朝川の元を巣立っていった。医学士、工学士、文理学士などがずらりと並ぶ。山下譲二ブラジル日本文化協会元専任理事、鈴木威文協元理事といった名も。  公私共に朝川を支えたのは、妻、さき(故人)だった。さきは女子師範学校を ...

続きを読む »