2003年
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朝川甚三郎不運の半生―6―日学連不祥事で求心力喪失―〝不思議な力〟にすがる
9月24日(水) 安江信一旧日学連事務局長の自殺(八七年四月)と前後して、元日本語教師の故折橋シズさんが訪日。「エスパーシール」と呼ばれる指先大の特殊なシールをブラジルに持ち込んだ。ESP(イーエス
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朝川甚三郎不運の半生―5―語普センター発足後―日学連の内紛火吹く
9月23日(火) 日学連、日文連、文協の日系三団体と政府機関の事業団、国際交流基金の思惑が複雑に絡みながら、日本語普及センターは八五年五月に、発足した。この頃、日学連では内紛が火を吹いていた。下本八
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朝川甚三郎不運の半生―4―国語として日本語教育―かたくなに拒んだ
9月20日(土) 「外国語としての日本語教育」──。六〇年代に入ると、ブラジル生まれの二世、三世にとって母国語はポルトガル語、日本語は外国語である、との認識が生まれた。 世代交代でブラジルへの同化
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朝川甚三郎不運の半生―3―78年、皇太子ご夫妻を歓迎―絶頂、華やかだった時期
9月19日(金) 「さくら、さくら、やよいの空よ、見渡すかぎり…」。 七八年六月十八日のパカエンブ競技場(サンパウロ市)。ブラジル日本移民七十年祭の記念式典が開かれ、八万人が会場を埋め尽くした。来
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朝川甚三郎不運の半生―2―サンパウロ市近郊―青年連盟の初代理事長―昭和学院を開校、生徒に体罰
9月18日(木) 勝ち組の流れをくむ組織、全伯青年連盟が各線有志を結集して一九五〇年一月、マリリア市(SP)で産声を上げた。会員総数三万人とも四万人とも言われた大所帯だった。 これに先立つ一年ほど
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朝川甚三郎不運の半生―1―臣道連盟活動に関与―最後の居場所、厚生ホーム
9月17日(水) 二〇〇二年六月三十日、臣道連盟の指導者の一人、朝川甚三郎がサントス市内の病院で家族に看取られることなく、八十九歳の生涯を終えた。死後、親族の手で辛うじて、コンゴニャス墓地(サンパウ
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平成の自由渡航者たち=運命の出会いに翻ろうされて(8)最終回=戦前戦後の区切りを超え=連綿と続く自由渡航の波
9月13日(土) ここ十数年でブラジルに移り住んだ日本人七人に話を聞き終えたところで、「移民区分のなかで、彼らをどう位置づければいいだろう」との疑問が寄せられた。国策でやって来たわけではない。しかも
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はばたけ!ダチョウ飼育(下)=夢追う日系飼育者==高まるブラジルでの需要
9月12日(金) ダチョウ飼育の大きな問題は、長期的な投資とインフラ整備が必要なことが挙げられるが、COONTRUZは滅菌した卵を、土曜日にまとめてアラサトゥーバ(USP)の共同試験場へ運び、孵化さ
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平成の自由渡航者たち=運命の出会いに翻ろうされて(7)=「美術史に残る作品を」=夢を見させてくれる場所
9月12日(金) 「サンパウロでは、たくさんの夢を見させてもらっている」と話す吉沢太さん(三九、埼玉県出身)は現代造形作家。大学でテキスタイルデザイン(織物)を学んだ後、ファイバーアート(繊維美術)
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はばたけ!ダチョウ飼育(中)手間かかる雛の飼育=高額で売買、メスの成体
9月11日(木) 「ダチョウ飼育で、一番気をつかうのは孵化してからの三カ月です」。 前田リカルドさん(四二)は、第二アリアンサでダチョウ飼育に取り組んで五年目になる。 デカセギで七年半ほど群馬や