8月7日(土) コロニアに入ってすぐ、墓地がひっそりとした佇まいを見せている。もともと日本人移住者のため、行政が用意したものだった。しだいに、地域住民もここに埋葬され始めた。 入植者二十九世帯のうち、半世紀後の今も植民地に留まっているのはわずか五世帯。ポルトベーリョは人口の割りに犯罪率が高く、農村地帯の生活も安全とは言えな ...
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「グヮポレ移民」50年=苦闘ののち、ある「今」(6)=出聖しても心許せず ようやく思い出話する余裕
8月6日(金) 七月と言えば、ブラジルは冬。標高七百八十メートルのサンパウロ(SP)では、底冷えのする日もある。常夏の地ポルトベーリョ(RO)から戻って、まず身にしみたのが寒さだ。 〃商都〃を目指したグヮポレ移民も、同じような体験をしたのだろうか。いや、むしろ都会の世知辛さが堪えたのかもしれない。コロニアを去ったとは言え、 ...
続きを読む »「グヮポレ移民」50年=苦闘ののち、ある「今」(5)=〃生き証人〃減るなかで=移民史編纂を急いだ
8月5日(木) 窓ガラスの一部は割れ、掃除をしていないのか内部もかなり散らかっていた。日本人会館(二十周年記念事業)はどうやら利用されていないようだ。不動産を巡るトラブルもあるらしい。 〃里帰り〃をした入植者たちは七月二十三日、コロニアを訪れた。会館の姿をみて、時の流れを感じとったことだろう。有刺鉄線の間をくぐって敷地に入 ...
続きを読む »「グヮポレ移民」50年=苦闘ののち、ある「今」(4)=交通網発達で農業不振に 田辺さん〃金採掘業〃もやった
8月4日(水) BR364号線が一九七四年に開通。ポルトベーリョ(RO)はブラジリア(DF)、サンパウロ(SP)などの都市と幹線道路で結ばれた。人と物の移動が容易になり、ロンドニア経済の起爆剤になった。交通網の発達は皮肉にも、コロニアを直撃する。 養鶏に活路を見出し胸を撫で下ろしたかと思えば、南から生鮮食品がどんどん市場に ...
続きを読む »「グヮポレ移民」50年=苦闘ののち、ある「今」(3)=入植52日目に長女産声=山口さん夫妻「食堂」で成功
8月3日(火) 服飾店、家電量販店、映画館…。ポルトベーリョの「九月七日通り」は日中、買い物に訪れた市民らで賑わっている。五日間の滞在中、この目抜き通りで日系人をみかけたのは、市営市場で働いていた二人だけだった。逆に、こちらに注がれる視線が痛いくらいだ。 ポルトベーリョの桟橋近くの公園を歩いていると、突如少女が近寄って声を ...
続きを読む »「グヮポレ移民」50年=苦闘ののち、ある「今」(2)=別名「幽霊植民地」出身の2人=日系団体で〃現役〃指導者
7月31日(土) ほぼ赤道直下での過酷な労働、猛威を振るう風土病マラリア。それに栄養失調も加わり、入植者は痩せ頬がこけた。「幽霊植民地」。旧海外協会連合会の派遣で同地を訪れた医師神田錬蔵氏は、皮肉のきつい綽名を付けた。 「この人たちの抗マラリア剤の飲み方はめちゃくちゃで、熱が出たからといってちょっと飲んで、熱が下がるとその ...
続きを読む »「グヮポレ移民」50年=苦闘ののち、ある「今」(1)=先没同志の慰霊祭会場=なぜ生長の家会館?
7月30日(金) アマゾン川最大の支流マデイラ川。十八世紀初めの探検家メーロ・パリェータ(葡)は、夥しい数の流木をみて思わず叫んだという。「死の川、マデイラ」。浸食された川岸から次々と木々が流れ出し、新天地に踏み込んできたポルトガル人を寄せ付けなかった。時代は降って、一九五四年七月。蒸気船リオ・タパジョス号に乗って、この川を ...
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