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アマゾンを拓く=移住80年今昔=【パリンチンス/ヴィラ・アマゾニア編】

 奇祭と呼ばれるアマゾンのカーニバル「ボイ・ブンバ」で世界的に有名となったパリンチンス。六月末には多くの観光客が訪れる町だが、かつてアマゾン経済を潤したジュート(黄麻)栽培の発信地であり、その先鞭をつけたのが日本人だった。一九三〇年、現地を視察した上塚司(1890~1978)は、後にアマゾニア産業研究所を設立。パリンチンス下流の土地をヴィラ・アマゾニアと名付け、〃理想郷〃建設に乗りだした。日本側では開拓の人材育成を目的に、国士舘高等拓植学校(後の日本高等拓植学校)を開校、三一年から卒業生(通称・高拓生)約二百五十人を送り出している。今。パリンチンスでもその歴史を知る人は少ない。〃兵どもが夢の跡〃を訪ねた。(堀江剛史記者)

アマゾンを拓く=移住80年今昔=【パリンチンス/ヴィラ・アマゾニア編】=《7・終》=伊原清子さん「辛いことばかり」=唯一残ったジュート工場

ニッケイ新聞 2009年7月14日付け  「お互い学生だったし、仕事も知らずに来たからね…。主人にもこぼせなかった辛いことばかり。ついて来た女が悪いですよ」。  高拓生四期生の伊原只郎(しろう、長野県、九八年に八四歳で死去)の妻清子さん(93、愛知県)はそう言葉少なに語る。  サンタ・ルジア、ワイクラッパでジュート栽培に従事した ...

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アマゾンを拓く=移住80年今昔=【パリンチンス/ヴィラ・アマゾニア編】=《6》=戦争が引き裂いた夢=潰えた植民地計画

ニッケイ新聞 2009年7月11日付け  ジュート栽培は過熱の一途を辿った。高拓生もマナウスから下流のサンタレンまで約千キロに広がり、現地人を指導し、生産に励んだ。  一九三九年に第二次世界大戦が勃発、ヨーロッパを経由するインドからのジュート輸入が困難となったことも追い風となり、値段は高騰した。  現地支配人だった辻小太郎は旺盛 ...

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アマゾンを拓く=移住80年今昔=【パリンチンス/ヴィラ・アマゾニア編】=《5》=ジュートの歴史教える尾山学校=3男多門氏「ジュートなければ全滅」

ニッケイ新聞 2009年7月9日付け  日出ずる国からリョウタがやってきた 川岸にジュートが広がった そうして私たちの心に愛が生まれた――。  そんな校歌の歌詞を校内に掲げる学校がパリンチンスにある。  一九七二年に創立した州立高「尾山良太学校(マリア・ヌニェス校長、生徒数七百八十九、Escola Estadual RYOTA ...

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アマゾンを拓く=移住80年今昔=【パリンチンス/ヴィラ・アマゾニア編】=《4》=高拓生・東海林善之新さん=「アマゾンに来て良かった」=藤川氏の経本を所有

ニッケイ新聞 2009年7月8日付け  「今もなお鬼哭の声が耳につき わが巡礼の旅は終わらじ」ー。  藤川辰雄は、同郷山口県の代議士田中龍夫と知己を得たことから、田中が会長となり一九六二年に発足した「日本海外移住家族会連合会」の初代事務局長に就く。  南米の日本人移住地を数度訪れたおり、夢半ばにして斃れた同胞たちが無縁仏となって ...

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アマゾンを拓く=移住80年今昔=【パリンチンス/ヴィラ・アマゾニア編】=《3》=研究所跡は上塚学校に=打ち捨てられた墓石

ニッケイ新聞 2009年7月7日付け  上塚司は調査団をヴィラ・アマゾニアに残し、森林伐採や宿舎建設などに当たらせた。  一九三〇年に開校していた国士舘拓植学校(後の日本拓植学校)を卒業した四十七人は、翌三一年四月、横浜港から「さんとす丸」に乗り込む。  植民地指導者―高拓生―の育成を目的とした学校の存在は、日本近代史上に残る類 ...

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アマゾンを拓く=移住80年今昔=【パリンチンス/ヴィラ・アマゾニア編】=《2》=マリアさん「パパイは高拓生」=現地に残る「赤とんぼ」の旋律

ニッケイ新聞 2009年7月4日付け  一九二六年。アマゾナス州政府の招待を受け、マナウス市を公式訪問した田付七太・在ブラジル全権大使は、エフィジェニオ・サーレス州知事から、百万町歩の無償譲渡を申し入れられる。  パラー州政府による同様の要請が競合意識を刺激したことに加え、ゴム産業の衰退を、日本人による農業開発で補おうとしたもの ...

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アマゾンを拓く=移住80年今昔=【パリンチンス/ヴィラ・アマゾニア編】=《1》=武富会長「日本人の歴史残したい」=八紘会館再建への夢=9月にはジュート記念碑建立も

ニッケイ新聞 2009年7月3日付け  奇祭と呼ばれるアマゾンのカーニバル「ボイ・ブンバ」で世界的に有名となったパリンチンス。六月末には多くの観光客が訪れる町だが、かつてアマゾン経済を潤したジュート(黄麻)栽培の発信地であり、その先鞭をつけたのが日本人だった。一九三〇年、現地を視察した上塚司(1890~1978)は、後にアマゾニ ...

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