ニッケイ新聞 2010年3月5日付け 言語は民族文化を伝承するための根本的なもので、親が子どもに、自分の文化をつたえようとする本能をみたすために、かくべからざるものである。親と子の精神的なつながりは、じつに、両者の文化が相通じることによって認められるので、もし、子どものもつ文化が、親のそれとひどくはなれ、コトバも通じなければ、 ...
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二世とニッポン語問題=コロニアの良識にうったえる=アンドウ・ゼンパチ=第13回=コロニア日語教育の現状
ニッケイ新聞 2010年3月4日付け われわれが、ニッポン語教育会議というものをつくったことに対して、コロニアの一部から、いろいろな批判をうけたが、それらは日語教育会議設立の趣旨が、じゅうぶんに理解されていないための誤解によるものであることをイカンに思っている。 そこで、ニッポン語教育会議の目的について、誤解されている点や理 ...
続きを読む »二世とニッポン語問題=コロニアの良識にうったえる=アンドウ・ゼンパチ=第12回=外国語教育令の盲点
ニッケイ新聞 2010年3月3日付け 外国語教育令は、外国語学校へはいる年を14歳以上とし、外国人が先生になることを禁じておきながら、肝心の教科書ついて、きびしい規定がない。これは移民の子孫の同化促進を目的として定められた法令としては、大きな盲点である。 現在、コロニアで使われているニッポン語教科書は、すべてニッポンの小学校 ...
続きを読む »二世とニッポン語問題=コロニアの良識にうったえる=アンドウ・ゼンパチ=第11回=ニッポン語教授とポ語習得
ニッケイ新聞 2010年3月2日付け 親が、その文化を子どもにつたえようとする気持は、人間の本能であるといっていい。これは、けっして禁止令などで、おさえられるような単純な気持ではない。コロニアの一部では、外国語教育令を守って、ニッポン語教授をやめているものもあるが、これとて、非常な不満を感じながらやむをえないという悲しいあきら ...
続きを読む »二世とニッポン語問題=―コロニアの良識にうったえる―=アンドウ・ゼンパチ=第10回=理想的なブラジル同化
ニッケイ新聞 2010年2月26日付け 移民およびその子孫がブラジル文化によりよく同化するということについて、われわれは、反対どころか、むしろ、それを望ましいことであると考えているのである。しかし、移民の文化を圧迫するような同化の強制、または、親と子との文化的な関連をたちきるようなやり方は、決して賢明な同化政策ではない。 民 ...
続きを読む »二世とニッポン語問題=―コロニアの良識にうったえる―=アンドウ・ゼンパチ=第9回=日本語と親子の文化的絆
ニッケイ新聞 2010年2月25日付け この外国語教育制限は、移民およびその子孫のブラジルへの同化を、できるだけ促進させる目的で行われたものであるが、この法令が行われてから十九年来の結果を見ると、それは決して、いい意味での同化促進とはなっておらす、ただいたずらに、一世と二世との文化的関連をたちきることになり、精神的な理解によっ ...
続きを読む »二世とニッポン語問題=―コロニアの良識にうったえる―=アンドウ・ゼンパチ=第8回=一世、二世の協力とコロニア
ニッケイ新聞 2010年2月24日付け 二世は、ニッポン移民の子として生れたところに、ふつうのブラジル人とはちがう性格がすでにある。二世は、コロニアと切りはなせない運命的なつながりをもつて生れてきているので、ニッポン移民のブラジルにおける発展、ひいては、ブラジル社会への貢献をより盛大に、効果的にするためには一世と二世の力強い協 ...
続きを読む »二世とニッポン語問題=―コロニアの良識にうったえる―=アンドウ・ゼンパチ=第7回=三つの二世像(2)
ニッケイ新聞 2010年2月23日付け ポルトガル語は、グルーポでならっただけで、町へ出て困ることはないが、ポルトガル語の新聞も本も、ほとんどよまない。中には、一世とあまりかわらないくらいニッポン的なのがたくさんいる。このタイプの中には、一世たちとは同じにつきあえるが、ブラジル人の中に出るとコトバの不自由なことや、ブラジル的な ...
続きを読む »二世とニッポン語問題=―コロニアの良識にうったえる―=アンドウ・ゼンパチ=第6回=三つの二世像(1)
ニッケイ新聞 2010年2月19日付け ある神父が、インドの森林の中を歩いていた時、オオカミの穴から、年が七つと二つぐらいと思われるふたりの女の子を見つけだした。胸や肩や頭には長い毛が密生しており、四足で走ればとても人がおいつけなかったそうだ。生肉を好んでたべ日がくれると活動を初め、夜中の10時と1時と3時にはきまって森にいる ...
続きを読む »ブラジルの風が運んだサヨナラ本塁打=高校球児=奥田ペドロ=(下)=次の舞台はベネズエラ
ニッケイ新聞 2010年2月18日付け 「あいつらが甲子園のグラウンドで野球をしているなんて夢のよう」(須長三郎)。2年生だった一昨年の夏、奥田ペドロと伊藤ディエゴを擁して初の甲子園を戦いぬいた本庄一の指揮官は感慨深げにつぶやいたが、その道のりは険しいものだった。 留学当時、二人の三世がまず悩んだのが野球のレベルもさることな ...
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