【リオ州ペトロポリス市発=田中詩穂記者】「日伯交流発展のため、日本文化を市民に知ってもらいたい」—。8月6日から今週末まで、リオ州ペトロポリス市で『日本文化祭2011』が開催中されている。企画・立案したのはペトロポリス日系協会。冒頭に紹介した安見清会長(71、茨城)、道子さん(73、東京)夫妻の熱意が込もった手作りの文化祭だ。市 ...
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〜OBからの一筆啓上〜=人生変えたブラジルサッカー=沢田啓明(元パウリスタ新聞記者)
ニッケイ新聞 2011年8月24日付け 私がニッケイ新聞の前身・パウリスタ新聞に籍を置いたのは、87年初めから88年末までの2年間。 社会部記者として在サンパウロ日本総領事館、ブラジル日本商工会議所、文協、援協、県連などを取材し、ウンウン唸りながら記事を書いた。拙いと自覚していたが、自分が書いた文章が活字になるのは嬉しかった ...
続きを読む »水野龍60年忌特別連載=大和民草を赤土(テーラロッシャ)に植えた男=第8回=華麗なる慶應義塾人脈=幻の第1回移民船土佐丸
ニッケイ新聞 2011年8月20日付け ブラジル移民史的にいえば、三越デパートの高橋義雄よりも武藤山治の方がはるかに近い存在だ。武藤は1928(昭和3)年に南米拓殖会社をつくり、鐘紡社長としてアマゾン移民導入を図った人物として知られている。だが実ははるか以前から慶應の同窓生である水野龍を通して、移民事業とは縁が深かった。 武 ...
続きを読む »水野龍60年忌特別連載=大和民草を赤土(テーラロッシャ)に植えた男=第7回=国際的国粋志向のどこか=華麗なる慶應義塾人脈
ニッケイ新聞 2011年8月19日付け 大隈重信に爆弾テロを行った来島恒喜は、福岡藩士の息子として生れ、中江兆民に仏語を学び、玄洋社に参加した。来島は水野の1歳年下であり、同じような時代の空気を吸って、同じようなことを考えた人物だ。わずかな違いは、爆弾を入れた箱が湿気ていなかったことだろう。 テロの後、あの勝海舟によって谷中 ...
続きを読む »水野龍60年忌特別連載=大和民草を赤土(テーラロッシャ)に植えた男=第6回=一生を貫く過激な性向=過激演説で再び投獄に
ニッケイ新聞 2011年8月18日付け 大隈重信襲撃事件といえば、日本史上有名なのは1889年に起きた右翼組織・玄洋社の一員だった来島恒喜(くるしま・つねき)による爆弾テロだ。 外国人判事を導入するという条約案に反対した来島は、大隈外務大臣(当時)の乗った馬車に爆弾を投げつけ、右足切断の大怪我を負わせ、31歳だった来島はその ...
続きを読む »水野龍60年忌特別連載=大和民草を赤土(テーラロッシャ)に植えた男=第5回=大隈重信侯の爆殺謀る=近代史変える危険人物に?!
ニッケイ新聞 2011年8月16日付け 実は水野は慶應義塾に入る前、のちに世話になる後藤象二郎らとは対立する立場、1882年3月結成の立憲帝政党だ。与党支持側に組し、当初はこれを政界進出の踏み台にしようとしていたようだ。『略伝』には「水野は政治に熱中し、福地源一郎、水野虎之助、丸山作樂等と帝政党を創ったり」(7頁)とある。 ...
続きを読む »水野龍60年忌特別連載=大和民草を赤土(テーラロッシャ)に植えた男=第4回=後藤や福沢から強い影響=慶應で出会った「武良尻」
ニッケイ新聞 2011年8月13日付け 〃禁獄事件〃の後に東京へ出た水野龍は当初、郷里の先輩で宮内次官になっていた大橋眞三を頼った。だが兄の訃報に接し、いったん帰郷して家事を手伝い、その後、再上京した。彼の望みを満たす何かは、中央にしかなかった。 今度は維新の元勲・後藤象二郎のコネに頼って、官僚になる道を目指した。坂本龍馬が ...
続きを読む »水野龍60年忌特別連載=大和民草を赤土(テーラロッシャ)に植えた男=第3回=学び舎で勤王の志士に=吉田東洋暗殺関係者も学友?!
ニッケイ新聞 2011年8月12日付け 水野龍は江戸時代の1859(安政6)年11月11日、土佐藩主山内氏の家老・深尾氏一族の家臣・亀子(カメス)の次男として土佐国高岡郡佐川(さかわ)町で生まれた。時まさに幕末の四賢侯と謳われた藩主・山内豊信(容堂)の隠居、梅田雲濱の獄死、吉田松陰の処刑など幕末の風雲急を告げる折であった。 ...
続きを読む »水野龍60年忌特別連載=大和民草を赤土(テーラロッシャ)に植えた男=第1回=知られざる家族の逸話=息子「悪人だと思っていた」
ニッケイ新聞 2011年8月10日付け 「移民事業は失敗だったと落胆したまま親父は死んだんです。百周年でブラジル社会、日本社会からあのような賞賛が寄せられたことを、まず母親に伝えたかった」。〃ブラジル移民の祖〃水野龍(1859—1951年、高知)の息子、龍三郎(80、二世)の語る父親像は衝撃的な内容だった。笠戸丸移民からお金を ...
続きを読む »〜OBからの一筆啓上〜パウリスタ新聞の思い出=田中慎二(元パウリスタ新聞記者)
ニッケイ新聞 2011年8月10日付け 私がパウリスタ新聞に入社したのは1960年9月。当時の編集長は木村義臣さんで、社会部のデスクが藤田普一郎さん。 田村幸重、平田進、野村丈吾といった日系議員の活躍が紙面を飾り、その年末のタイム誌に「マベ黄金の年」という1ページの紹介記事がでるなど、画家の間部学さんが世界のマベとして飛躍し ...
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