ニッケイ新聞 2012年9月5日付け 無論、錦衣帰国が第一義でしたが、そればかりでなく、ポルトガル語を覚えられなかった親たちのエゴが日本語学習を強制したのです。考えてみれば青森の片田舎で1910年に生まれた父などは、ローマ字も教わっていない時代でしたから、覚えられなかったのも無理もないんですが。 《夜の日本人の街。サルゼダス ...
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ブラジル文学に登場する日系人像を探る=ギリェルメ・デ・アルメイダのコンデ街=O Bazar das Bonecas=中田みちよ=第5回
ニッケイ新聞 2012年9月4日付け 彼女はブラジル生まれ308名中の一人です。信教の自由が謳われる世に生まれたものにとって、隠れキリシタンそのものが、理解の枠外にあるようです。 当時の大多数の移民の親は仏教徒だったはずですから、宗教観よりも、留守の間に悪の道に入らないための便法として教会に通わせたものが多かったと推測できま ...
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ニッケイ新聞 2012年9月1日付け 当時、コンデ街にどんな店があったかというと、まんじゅう屋、とうふ屋、やど屋、せんたく屋、おもちゃ屋、くだもの屋、かまぼこ屋、とこ屋など。1929年といえば、まだ笠戸丸移民が渡って20年ほど。ここでいう「家庭的な下宿」は、仕事を探してサンパウロ市にやってきた田舎の人たちでしょうから、三食付で ...
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ニッケイ新聞 2012年8月31日付け 《コンセリェイロ街を進むと、コンデ・デ・サルゼーダス街にでる。急勾配の道がまっすぐ伸びているその先には、ボア・モルテ街の古くて黒くて悲しい屋根がある。ボア・モルテ街の屋根・・・ 聖週間の死人のような静けさを保ち、そして、喪に服すその家族のように、故ファグンデスを包む紫の思い出の中に生き ...
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ニッケイ新聞 2012年8月30日付け コンデ街は移民に関する書物では必ず登場するのですが、その暮らしざまをブラジル側ではギリェルメ・デ・アルメイダ(Guilherme de Almeida、1890〜1969)が描写していました。 ギリェルメは弁護士でジャーナリスト、そして日系社会では「ハイカイ」をブラジルに導入したひとと ...
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ニッケイ新聞 2012年8月29日付け ずっと長い間、私のうちにわだかまりがありました。100年を越したブラジルの日本移民史でいつも語られる辛酸をなめた話。コーヒー園からの逃亡、コンデ・デ・サルゼーダス街のポロン暮らしの話。邸宅に女中奉公や下男勤めをした話。いつでもいつも視点は日本人側からの、つまり内側からのものです。たとえば ...
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