2012年
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苦難のラトビア移住史=ヴァルパ植民地と日本移民=(終)=開拓精神を支えた信仰
パルマ共同農場は最初こそ協働作業で開拓したが、徐々に独立して財産を私有に戻し巣立っていった。若者が減ると農場経営が成り立たなくなり、65年の総会でリオにあるバチスタ教会連合会に土地を寄付し、その代わ
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ジュサラの持続的生産を〜セ・バーラス森林農法プロジェクト〜(下)=「夢では終わらせない」=環境保護と村の発展めざし
ニッケイ新聞 2012年8月15日付け 元企業家のジルベルトさんは、農家に転身して10年余り。「環境に良い影響を与えるアグロフォレストリーの概念そのものが素晴らしく、自分は魅了されている。政府からも
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苦難のラトビア移住史=ヴァルパ植民地と日本移民=(4)=管弦楽団持つ文化農村
ヴァルパでは文化活動も盛んで特に合唱がよく行われ、農家兼芸術家が多く住んでいた。「ヴァルパ・オーケストラ部が組織され、1940—50年頃には60人から80人のバイオリン奏者がうまれた」(阿部記事)と
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ジュサラの持続的生産を〜セ・バーラス森林農法プロジェクト〜(上)=栄養価高いジュサラの実=日本のNPO団体が協力
ニッケイ新聞 2012年8月14日付け 大西洋岸林地域の農家の安定した収入確保をめざして—。大西洋岸の北部から南部にかけて分布する大西洋岸森林(マッタ・アトランチカ)地域の小農を支援する、ジュサラ椰
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苦難のラトビア移住史=ヴァルパ植民地と日本移民=(3)=バストスに養鶏もたらす
祖国での宗教迫害から逃れ、〃預言〃を信じてバチスタ信徒ら2300人が大西洋を渡り、22年11月に同植民地を創設した。そんな経緯から当初より永住を目指していた。開拓当初、信徒らは財産を自治組織に委ねて
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苦難のラトビア移住史=ヴァルパ植民地と日本移民=(2)=日露戦争の両側から移住
「北から赤い熊(ロシア)が来る。この国を出なさい」。緊張が高まっていた1922年当時、祖国の危機の再来を暗示する〃預言〃をポ語で語る者が現われた—との噂がラトビア中に広まっていた。1890年代にサン
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苦難のラトビア移住史=ヴァルパ植民地と日本移民=(1)=謎の過去持つ一世たち
「すべての歴史はある預言から始まりました」。ラトビア移民がパウリスタ延長線に1922年に創立したヴァルパ植民地で、ヤニス史料館(Museu Janis Edbergs)職員のルシア・ザリット・ブック
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『汚れた心』8月公開=アモリン監督に聞く=(下)=移民通して世界的課題問う
アモリン監督がこのような広い視点をもっているのは、父セルソ・アモリンが元外務大臣にして、現国防大臣という血筋も関係する。親が外交官だったため、同監督はオーストリアで生まれ、諸外国を点々として成長する
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『汚れた心』8月公開=アモリン監督に聞く=(中)=「弾圧から抗争生まれた」
米国日系人は戦後、国を相手取って裁判を起こし、戦争中の強制収容が間違いだったことを認めさせ、賠償金を支払わせた。当地において、大戦中に強制退去させられたサントス地方の数千家族、コンデ・デ・サルゼーダ
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『汚れた心』8月公開=アモリン監督に聞く=(上)=勝ち負け描いた異色作
「パンドラの箱」のようにコロニアのタブーが詰まった勝ち負け抗争を、なぜかブラジル人監督が映画化した。その名も『汚れた心』——。映画の冒頭では、現代日本ではほぼ使われなくなった言葉「国賊」が筆書きされ