日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年
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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (67)=アリアンサへの熱い誘い=60年史から消された人々
ニッケイ新聞 2013年11月2日 レジストロ第1回植民団の松村栄治を父に持つ昌和(91、二世)は、「私は会ったことないが、父は輪湖俊午郎さん、北原地価造さん、永田稠さんとも知り合いだった」と振りか
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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (66)=新〃信濃村〃を作ろう!=国士的情熱で長野県人団結
ニッケイ新聞 2013年11月1日 移民会社が主体となった海興は国士的な想いよりも、利益のでる事業が重視され、植民地経営は、いわば継子扱いされた状態であった。〃日本人村〃創設に半生を掛けてきた青柳の
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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (65)=輪湖アリアンサ建設へ=永田稠と肝胆相照らす
ニッケイ新聞 2013年10月31日 運命の出会いは、移民史上最初の〃信濃村〃ともいえるレジストロ第4区だった。 その一人は、中南米9カ国を一巡中の日本力行会の第2代会長、永田稠(しげし)だ。19
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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (64)=2軒に1軒が脱耕の危機=ノロエステに向かう流れ
ニッケイ新聞 2013年10月30日 写真=1928年当時のレジストロ市街の様子、現在のPraca dos Expedicionarios(『20周年記念写真帳』15頁) 海興職員だった野村隆輔の目
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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (63)=さらに山奥のキロンボ=「猿でも住めない不便な処」
ニッケイ新聞 2013年10月29日 山根はセッチ・バーラスの町の近くで養鶏やったり、花ゴザを作ったりした。「ゴザ生産者組合を作って会長も4、5年やりましたよ。でも90年頃から中国製の安いのが入るよ
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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (62)=激動期の1930年前後=「もし北パラナだったら…」
ニッケイ新聞 2013年10月26日 山根家では1929年に〃金のなる木〃コーヒー樹の苗を植えた。収穫は32年からの予定だったが、その間に世界は激変期を迎えた——。 コーヒー生産は二十世紀初頭から
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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (61)=苦難のセッチ・バーラス=苦々しいコーヒーの経験
ニッケイ新聞 2013年10月25日 山根家が最初に配耕されたのは、幸運なことに北パラナのカンバラにあるバルボーザ耕地だった。「テーラ・ロッシャですよ。ブラジルは素晴らしい土地だと感じた」と振り返る
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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (60)=関東大震災で国策移住に=海興の地図に振り回され
ニッケイ新聞 2013年10月24日 「海興のおかげで一生を棒に振りました。ブラジルまできて貧乏して、貧乏して、貧乏して…」。山根善信さん(よしのぶ、91、兵庫)=レジストロ在住、3月12日取材=は
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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (59)=北パラナへ移転する流れ=徒歩で海岸山脈を越えて
ニッケイ新聞 2013年10月3日 沼田小一郎(信一の父)は北パラナ視察の帰りに、道端でスイカを売っているのを見て「家族に食べさせたい」との一念から買い、それを担いで海岸山脈を越えて割らずに届けた。
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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (58)=地図の上の一本の線=「鉄道通って便利になる」
ニッケイ新聞 2013年10月2日 レジストロが満植になるとリベイラ河にそって18キロほど上流に、1920(大正20)年からセッチ・バーラス植民地が開設された。レジストロから河蒸気で4時間もかかって