ニッケイ新聞 2013年6月22日 ただ、前出の香山の四十年史によると、ピエダーデでは、1945年5月、日本人80人が無届けで集会をやり、サンパウロ送りになったという。もっとも、事実なら、やった方が無茶というものであろう。 サンパウロ在住の川村久賀須さん(2009年現在92歳)は、こう語る。 「戦時中は、ビアジャンテ(行商人 ...
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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(30)
ニッケイ新聞 2013年6月25日 「 七月二十日 昨日は東條内閣総辞職の報あり。…(略)…さて、これは時節柄、どうしたことか、と一寸不安になった」 「七月二十八日 その後、ドイツの形勢は面白くない。…(略)…戦線では後退に次ぐ後退」 「十二月十八日 日本のラジオだけで、他の事には絶対耳を覆っているものが大多数」 利敵産業襲撃 ...
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ニッケイ新聞 2013年6月1日 米英の在ブラジル公館からすると、枢軸国系の新聞は目障りな存在であった。ドイツ語の新聞がヒットラーを賞賛し、イタリア語の新聞がファシズムを声援、日本語の新聞が、大陸での日本軍の破竹の進撃ぶりに酔ったような紙面をつくる。それに、それぞれの国の移民社会が影響され、周辺に祖国の主張を宣伝する。バルガス ...
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ニッケイ新聞 2013年6月4日 それに、1934年の排日法成立の頃から、この新しい動機による帰国が加わった。 一家そろって……というそれもあったが、とりあえず子供の教育は日本で……という風潮が強まり、経済的余裕のある親は、小学校を終えた子供を日本の中学校に入れるため、日本向けの船に乗せた。 その船には、留学あるいは従軍を ...
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ニッケイ新聞 2013年6月5日 首都リオデジャネイロ駐在の日本大使石射猪太郎は、政府の要人たちを訪問して、ブラジルの局外中立維持を要望したり、記者会見で同趣旨のことを強調したりしていた。その著『外交官の一生』によれば、 「私が参謀長ゴエスモンテイロ将軍に会見して、中立維持を要望すると、日本大使は急所を心得ている、とリオ新聞が ...
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「 44年、出征が決まった。日本に行かされるのではないか、とビクビクしていた。が、送られた先はイタリアだった」 「何度も戦闘を経験した。何回か覚えていない」 「雪の中で戦ったことがある。ドイツ兵が白装束でやって来た。だから、よく見えない。が、人の気配を感じた。誰か!と三度叫んで返事がないので撃った。その弾がドイツ兵の背中に当って ...
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後 者は、ブラジルに居って、志願あるいは召集により、イタリア戦線へ出征した日系兵士たちである。もっともイタリアは降伏した後で、戦った相手はドイツ軍であった。1944年から45年にかけてのことである。 イタリア戦線へのブラジルからの派遣軍の総数は2万5千名、その中に日系兵士は40余名。戦死者は全体で451名、日系は1名。 2 ...
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興道社は未だ設立されていなかった。 襲撃事件は多く起こったが、詳細は不明である。興道社の結社員の残した小冊子には「被害者は殆ど警察沙汰にはしなかった。利敵産業を営む後ろめたさによる」とある。 サンパウロ州公文書保管所2000年発行の“SHINDO ? RENMEI : TERRORISMO E REPRESSAO”(臣道連 ...
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岸本昂一の知人の山口家は、印刷業を営んでいたが、ある夜、刑事たちがピストルを手に、家宅捜索にやってきた。主人は外出中、子供は不意の闖入(ちんにゅう)者に怯(おび)え、母親に小さい身体を摺(す)り寄せオドオドしている。刑事の一人が、机の引き出しに入れてあった金を取り出した。母親が駆け寄り「イケマセン。それは私たちの命を支えてゆく ...
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ニッケイ新聞 2013年5月30日 当時、永住・同化を唱えた文化人は、他に古野菊生、半田知雄らが居たが、古野も戦後、帰国している。古野が、帰国の折、その〃後ろめたさ〃の様な心境を、正直に邦字新聞の紙面で告白していたことを筆者は覚えている。 拓殖事業家、新聞人として名の知られていた輪湖俊午郎という人物がいた。彼も同じ論者であっ ...
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