終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ
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終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ=第12回=日本移民版「出エジプト記」
岸本昂一はこのサントス強制立ち退きを《大南米におけるわれらの「出埃及(エジプト)記」》(同42頁)と譬えた。 岸本のようなキリスト者にとって、ユダヤの民がモーゼに導かれてエジプトを脱出する苦難の歴史
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終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ=第11回=サントス強制立退き令の悲劇
『戦野』は戦中のどんな〃ブラジルの機密を暴露〃していたのか――。 『戦野』の第1章1節の見出しのみを羅列すると「日ブラジル交断絶」「資金凍結下の苦闘」「日本語教育受難」「日本人農家五十家族立退命令」
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終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ=第10回=ブラジルの機密を暴露
「岸本さんは教育者的だった」と多くの人が印象を証言している通り、岸本昂一は1939(昭和14)年、日本の帝国教育会から在外日本人教育功労者表彰(1941年、『ブラジルにおける邦人発展史』下巻、204
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終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ=第9回=二世公証翻訳人Yとは誰か
53年10月の国外追放裁判の第2審で無罪判決が下された後、《これで事件は完了していたものと思っていたところ、「貴下の帰化権が剥奪されることになつたから、至急異議申し立ての手続きをしなければならない」
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終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ=第8回=認識派新聞からの妨害工作
書名の〃戦野〃という言葉にどこか物々しい印象を受ける。第2次大戦では直接の戦場にならなかったブラジルなのに、日本移民には〃戦場〃だと感じさせる何かがあった。もちろん岸本が信仰するキリスト教プロテスタ
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終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ=第7回=温厚な教育者と危険人物の狭間
日本移民で唯一「国家の危険人物」として禁書にされた岸本の写真が、今も高々と掲げられている公的な場所がある。サンパウロ市の新潟県人会館入り口だ。岸本は1969年2月から71年1月まで第3代会長を務めた
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終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ=第6回=家族にもタブーだった裁判
暁星学園同窓会から岸本昂一について調べ始め、次々に興味深い事実が浮かび上がってきた。取材した卒業生は「岸本先生は永住論者、認識派だった」と口を揃えた。 ところが54年頃からパ紙で記者をしていた若松孝
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終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ=第5回=認識派新聞に伝わる〃伝統〃
岸本逮捕に関して伯字紙よりも早く報道にしながら、距離を置くニュアンスのパウリスタ新聞―。パ紙の創立は1947年1月であり、岸本逮捕はその翌年3月だ。 良く調べてみると、そもそも岸本逮捕の発端となった
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終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ=第4回=勝ち組叩きで名を挙げた翁長
翁長英雄の意見を大々的に報道した1946年4月10日付ノイテ紙記事の主見出しは「A Shindo-Renmei Prosseguira!」(臣道聯盟は突き進むだろう)。副見出しが「Um nipo-b
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終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ=第3回=伯字紙「最悪の人物」と報道
当時の伯字紙を探すと主要紙が揃って岸本逮捕を報じていた。前年まで連日騒がせた臣道聯盟に関連した〃大事件〃と見られていた。 48年5月16日付コレイオ・ダ・マニャン紙は「ブラジルにたて突く本を書く」と