『伯謡会の回顧』(84年)で鈴木威は《私は小鼓を二丁持っています。一丁は母の親ゆづり、もう一丁は脇山大佐が凶弾に斃れる数日前、吉川中佐の手を経て私に贈られたものです》(108頁)と書く。 終戦勅諭に署名した時から脇山は覚悟を決めていたのかもしれない。だから、大事な小鼓を鈴木に贈った。でも吉川を通して贈ったということは、友を死の ...
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終戦70周年=〃台風の目〃吉川順治の横顔=身内から見た臣聯理事長=(9)=認識派に祭り上げられた脇山
吉川は勝ち組から祭り上げられたが、その盟友である脇山甚作バストス産業組合長(陸軍大佐)は逆に認識派から持ち上げられた。 皇紀二千六百(1940)年には全伯産業組合の代表として招聘されて帰朝し、帝都の式典に参加した。でもそれゆえに、開戦後は政治警察(DOPS)からは真っ先に睨まれた。 《ブラジル官憲より、氏が日本陸軍の上層部であ ...
続きを読む »終戦70周年=〃台風の目〃吉川順治の横顔=身内から見た臣聯理事長=(8)=「中佐に頼るべきではない」
丹念な取材を積み重ねた末に書かれた『百年の水流』で外山脩は、暗殺事件の実行関係者の一人、押岩嵩雄(1947年1月の森田芳一の甥ご札事件の関係者)から次のような驚くべき証言を引き出している。 押岩は臣道聯盟が1946年1月頃にジャバクアラに事務所を開いたのを聞き、パウリスタ線のキンターナから出聖して吉川を訪問した。 暗殺計画の存 ...
続きを読む »終戦70周年=〃台風の目〃吉川順治の横顔=身内から見た臣聯理事長=(7)=勝ち組の救世主に祭り上げられ
〃吉川精神〃は1944年10月、獄中で書かれた。早田さんに「吉川は獄中の話をしなかったか」と尋ねると「聞いたことない」と答えた。「戦争中に警察に連れていかれた。拷問されたという話は聞かなかった。でも監獄で脳溢血を起こし半身不随になりました。初めはものも言えなかったが、だんだんドモリながらもなんとか言えるようになった」と思い出す ...
続きを読む »終戦70周年=〃台風の目〃吉川順治の横顔=身内から見た臣聯理事長=(6)=吉川が〃賛同〃したものとは
『十年史』で「薄荷国賊論」と単純化されて表現されたものは、戦中に獄中で吉川が書いた古い文体の文書のことのようだ。『日本移民八十年史』(編纂委員会、91年)によれば1944年10月に書かれたもので、186~190頁に全文が掲載されている。 その中で《「メントール(薄荷)」の用途を知るにおよび驚愕、窃かに本国政府の意見を正そうとす ...
続きを読む »終戦70周年=〃台風の目〃吉川順治の横顔=身内から見た臣聯理事長=(5)=理屈っぽい謡曲教師の姿
早田さんは「吉川さんは洗濯屋の仕事は手伝わないが台所を良くやってくれた、軍隊式でね。今日は何と一週間分の献立を表にして貼り出し、その通りに作った。家族の分全員を作ってくれ、けっこう美味しかったんですよ。本当に真面目に仕事をする人だった」と懐かしそうに目を細める。 「戦争前には、よく青年が出入りして謡いや生け花を習いに来ていた」 ...
続きを読む »終戦70周年=〃台風の目〃吉川順治の横顔=身内から見た臣聯理事長=(4)=棉作諦め洗濯屋「アジア」に
早田さんは「吉川家は1934、5年に渡伯してきましたが、その直前に私だけを残して家族は帰り、東京で暮らしていたそうです」という。「父は『性に合わない、ブラジルは嫌だ』って帰ってしまった。帰るお金はとってあったようです」と振りかえる。 「あしあと」プロジェクトの渡航者名簿データベースで調べると、吉川順治は1935年4月29日サン ...
続きを読む »終戦70周年=〃台風の目〃吉川順治の横顔=身内から見た臣聯理事長=(2)=文武両道のインテリ陸士
早田(そうだ)さんは「日露戦争に騎兵として従軍し、コサック兵と切りあって負傷した。その功績から金鵄勲章をもらったと聞いています」と振り返る。開戦時、吉川は27歳。金鵄勲章は軍人軍属のみが受勲できる。 『百年の水流』(外山脩、12年、283頁)には、詳しくその話が書かれている。 《尉官時代に出征。戦場で斥候長をつとめていたある日 ...
続きを読む »終戦70周年=〃台風の目〃吉川順治の横顔=身内から見た臣聯理事長=(1)=有名ゆえに抹消された男=軍人目指し新潟から徒歩上京
コロニアにおいては超有名なのに、経歴や人柄が分からない不思議な人物に、吉川順治がいる。退役陸軍騎兵中佐で勝ち組最大の団体「臣道聯盟」理事長として、終戦直後に起きた「勝ち負け抗争」について記述される際には必ず名前がでる。その割りにコロニアの人名事典の類に彼に関する記述は皆無だ。それゆえ出身地や誕生年、没年など分からないことが多い ...
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