終戦70周年=〃台風の目〃吉川順治の横顔=身内から見た臣聯理事長
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終戦70周年=〃台風の目〃吉川順治の横顔=身内から見た臣聯理事長=(10・終わり)=二つの名器が奏でる調べ
『伯謡会の回顧』(84年)で鈴木威は《私は小鼓を二丁持っています。一丁は母の親ゆづり、もう一丁は脇山大佐が凶弾に斃れる数日前、吉川中佐の手を経て私に贈られたものです》(108頁)と書く。 終戦勅諭に
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終戦70周年=〃台風の目〃吉川順治の横顔=身内から見た臣聯理事長=(9)=認識派に祭り上げられた脇山
吉川は勝ち組から祭り上げられたが、その盟友である脇山甚作バストス産業組合長(陸軍大佐)は逆に認識派から持ち上げられた。 皇紀二千六百(1940)年には全伯産業組合の代表として招聘されて帰朝し、帝都の
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終戦70周年=〃台風の目〃吉川順治の横顔=身内から見た臣聯理事長=(8)=「中佐に頼るべきではない」
丹念な取材を積み重ねた末に書かれた『百年の水流』で外山脩は、暗殺事件の実行関係者の一人、押岩嵩雄(1947年1月の森田芳一の甥ご札事件の関係者)から次のような驚くべき証言を引き出している。 押岩は臣
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終戦70周年=〃台風の目〃吉川順治の横顔=身内から見た臣聯理事長=(7)=勝ち組の救世主に祭り上げられ
〃吉川精神〃は1944年10月、獄中で書かれた。早田さんに「吉川は獄中の話をしなかったか」と尋ねると「聞いたことない」と答えた。「戦争中に警察に連れていかれた。拷問されたという話は聞かなかった。でも
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終戦70周年=〃台風の目〃吉川順治の横顔=身内から見た臣聯理事長=(6)=吉川が〃賛同〃したものとは
『十年史』で「薄荷国賊論」と単純化されて表現されたものは、戦中に獄中で吉川が書いた古い文体の文書のことのようだ。『日本移民八十年史』(編纂委員会、91年)によれば1944年10月に書かれたもので、1
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終戦70周年=〃台風の目〃吉川順治の横顔=身内から見た臣聯理事長=(5)=理屈っぽい謡曲教師の姿
早田さんは「吉川さんは洗濯屋の仕事は手伝わないが台所を良くやってくれた、軍隊式でね。今日は何と一週間分の献立を表にして貼り出し、その通りに作った。家族の分全員を作ってくれ、けっこう美味しかったんです
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終戦70周年=〃台風の目〃吉川順治の横顔=身内から見た臣聯理事長=(4)=棉作諦め洗濯屋「アジア」に
早田さんは「吉川家は1934、5年に渡伯してきましたが、その直前に私だけを残して家族は帰り、東京で暮らしていたそうです」という。「父は『性に合わない、ブラジルは嫌だ』って帰ってしまった。帰るお金はと
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終戦70周年=〃台風の目〃吉川順治の横顔=身内から見た臣聯理事長=(2)=文武両道のインテリ陸士
早田(そうだ)さんは「日露戦争に騎兵として従軍し、コサック兵と切りあって負傷した。その功績から金鵄勲章をもらったと聞いています」と振り返る。開戦時、吉川は27歳。金鵄勲章は軍人軍属のみが受勲できる。
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終戦70周年=〃台風の目〃吉川順治の横顔=身内から見た臣聯理事長=(1)=有名ゆえに抹消された男=軍人目指し新潟から徒歩上京
コロニアにおいては超有名なのに、経歴や人柄が分からない不思議な人物に、吉川順治がいる。退役陸軍騎兵中佐で勝ち組最大の団体「臣道聯盟」理事長として、終戦直後に起きた「勝ち負け抗争」について記述される際