『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲
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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=(59)
詐欺で大量被害 よく知られている様に終戦直後は、戦勝説に便乗した詐欺が、各地で頻発した。アサイでも大量の被害が出た。多数の邦人が集中していたため、狙われたのである。 外部から詐欺師たちが入り込んで
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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(58)
アサイとトゥレス・バーラス 1944年、市街地アサイはムニシピオに昇格した。周辺の区の多くは、その新ムニシピオに編入された。が、区の全部または一部が、隣接する別のムニシピオに編入された所もあった。そ
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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=(57)
清水家の災難 1943年12月31日、ペローバ区の清水家に災難がふりかった。当時、清水家は使っていたカマラーダに、賃金の代わりに、近くの商店で使えるバーレ(引換え券)を渡していた。が、そのカマラーダ
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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(56)
危惧、的中 この間、ブラ拓事務所と産業組合の危惧が、早くも的中していた。 1942年2月4日、セボロン区の志津源次郎の甥、小泉徳雄(25才)が、市街地に買物に出ての帰途、路上で、カマラーダたちに襲わ
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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(55)
カマラーダが暴動 1936年のことである。一夜、市街地で、一人のカマラーダが銃で殺された。その頃の所轄だったジャタイ署から警官が来たが、犯人不明のまま二日後、引き上げた。 すると、西村組で働いていた
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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(54)
区会、青年団 大人は時々、寄合いをした。それは熱気に溢れていた。やはり資料類に掲載された「開拓期を語る座談会」の記事の中に、その様子が語られている。こんな風に──。【後藤】「その頃の区会は実に真剣だ
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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(53)
最初の小学校は、中央区にできた。移住地の開設早々の1932年に仮教室、生徒13名で始め、翌年に校舎を建設、開校した。以後、区ごとに、入植者がある程度の数になると、新設した。 学校には、日本語科とポル
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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(52)
この平十さん、ブーグレ時代、大事にしていた良馬を盗まれた。怒り心頭、200キロもの距離を探し回った。ジャタイを経てロンドリーナまで行ったが、見つからなかった。しかし「人間万事塞翁が馬」で、ジャタイの
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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(51)
この地方は今日、国内有数の穀倉地帯となっている。何処まで行っても、車窓遥か地平線まで続く無数の大農場、しばしば現れる大、中、小の多数の都市から成っており、小国くらいの規模はある。まさに国造りをしての
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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(50)
たった6家族! この時も山口が活躍した。斉藤と職員一名を連れ、兵士に見つからぬ様、隘路を選んで州境のパラナパネマ河畔に出、そこから丸木舟で対岸に渡った──と資料類にはある。が、これは河畔で住民を探し