父親そっくりの… 後宮武雄の長男良威氏は、先に記した様に、1935年、セント・ビンチ・シンコに生まれ、翌年、日本へ行き、15歳でブラジルに帰った。その後1957年、再び日本へ行き、父親と同じ慶応の経済学部を卒業して結婚、夫人と共に6年ぶりに帰伯した。 慶応の経済といえば、職場は丸の内のビジネス街辺りが相応しかったろう。が、牛糞の ...
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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(39)
14年間、帰伯不能 ところが、日本滞在中、武雄が病気になったり父親の仕事を手伝ったりしている内に、大東亜戦争が始まり、帰伯不能になってしまった。 農場は支配人によって管理されていたが、1942、3年、降霜があり被害を受けた。さらに、ブラジル政府が、枢軸国系資産の凍結令を発し、農場は当局の監察下に置かれた。 やがて戦争は終ったが、 ...
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髑髏、現わる 一人になった武雄は困惑した。幸い、前出の総領事館の斉藤の世話で、支配人にしかるべき人材を得、購入地の開拓に着手した。その時の写真が残っているが、中に衝撃的な一枚がある。人間の髑髏が三つ並んでいるのだ。森林を伐採、山焼きをして整地中に、偶然、発掘してしまったらしい。この地域の事情通が、それをインヂオの骨と鑑定したので ...
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「君の名は」の後宮 ここで一寸、話の筋は逸れるが、後宮という姓は、元々は「うしろく」と読んだ。が、当時、戸籍は仮名をふらなかったので、信太郎は「あとみや」と名乗った。 その弟は「うしろく」のままで通した。戦前から戦中にかけ陸軍の要職を歴任した後宮淳(うしろく じゅん)大将で、武雄の叔父に当たる。後宮大将は、東條英機首相と士官学校 ...
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二章 バンデイランテス 農場を守り、守り続けて90年 サンパウロ―パラナ線は、1930年、カンバラーから西へ52キロ地点まで延びた。駅はバンデイランテスと名付けられた。これは地名にもなった。 駅の開設時の賑いについてはカンバラーの章で記したので略すが、周辺の土地が区画化され、道が造られ、商店や住宅、ホテル……が次々と建てられた。 ...
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迫害 やはりナショナリズムの影響で日本人の新年会に、カマラーダが数名乗り込み、ファッカや山刀を振り回し、ケガ人が出るという事件も起きた。彼らは、いつも、武器を腰に下げていた。警官に偽装したギャングも現れた。 戦時中には、私服の警官が植民地に入り込み、皆、いつ嫌疑を受けて連れて行かれるか、戦々恐々としていた。日本語で挨拶しただけで ...
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後から知ったそうだが、ブラジルでは、園芸作物に特許権というものはなく、それに代わるものは学会での発表だけであった。 奥山家では、コチア産組の間島正典技師の計らいで、夫人の名で日本でも品種登録をした。すると、やがて農林省から特許料を送金すると連絡してきた。孝太郎氏は断ったが、何度も電話してきて「受取ってくれ」と言う。その度に断り ...
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上野さんが、地元の文協を案内してくれた。ACEB=バンデイランテス文化スポーツ協会=という名称である。会員は150家族というが、その割には、立派なグランドやプール、各種の建物があった。創立は1949年というから、終戦4年後であり、サンパウロの文協より古い。 当初はバンディランテス・スポーツ協会という名称で、スポーツから始めた。 ...
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地元日系社会の90年 バンデイランテスには野村農場の創立とほぼ時を同じくして、日本人の入植が始まった。最初は1927年、山田末吉という福島県人が100アルケーレスという広さの土地を買った。当時の農業用区画は、普通、一家族当たり10アルケーレスであった。山田は笠戸丸移民でリベイロン・プレット地方のファゼンダ・ドゥモントに配耕され、 ...
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翌年、野村農場はカフェー55万本、収穫量6万8千俵を達成、往年の模範農場の勇姿を回復した。そこで関係者多数を招き、感謝のためのシュラスコ会を開いた。その折、再建の経緯を報告中、牛草は感極まって絶句、その様が人々に強い感銘を与えた。開戦時、農場を去ってから23年が経っていた。 以上の様な労苦が牛草を鍛え上げ、既述の(筆者が会った ...
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