すると、ある日、カンバラー警察のコルデイ署長から「クリチーバ(州警察本部)から、貴下を逮捕するよう指令がきている。至急、州外へ出るように」と伝えてきた。この逮捕令は、農場の管理人が「牛草がカンバラーに居ては、木村と連絡をとって、自分たちのすることを何かと邪魔する。クリチーバの刑務所へ送り込もう」としてやった工作である疑いが濃厚 ...
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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(29)
翌1933年、カフェー樹数は32万5、000本となっていたが、経営は創業以来の赤字から抜け出すことができないでいた。これはカフェーが生産過剰で、市況が極端に低迷していたためである。時のゼッツリオ・ヴァルガス政権は、前年、サンパウロ州に於ける新植を禁止、以後、余剰カフェーの大量廃棄・焼却に踏み切っていたが、まだ効果は出ていなかっ ...
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伊藤陽三の運と不運 野村徳七は元々、海外事業に強い熱意を持っていた上、政府から働きかけを受けていたため、伊藤陽三の話に直ぐ乗ったのであろう。ただ資金が10万円では、政府が期待するほどの仕事は出来ないと見て、100万円出すことにしたのだろう。無論、伊藤個人を充分調べた上で……。 伊藤が野村を訪問したのは、まことに時宜を得ていたこと ...
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背後に国策 しかるに何故、100万円を出したのか。その正確な理由は資料類にも記されていない。が、筆者は、この時期、野村徳七は政府からブラジル投資の要請を受けていた──と読んでいる。 以下は拙著『百年の水流』改訂版の四章に記したことであるが、1924年から日本政府のブラジル移植民事業に対する姿勢が、俄かに積極化している。 これには ...
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二章 バンデイランテス 農場を守り、守り続けて90年 サンパウロ―パラナ線は、1930年、カンバラーから西へ52キロ地点まで延びた。駅はバンデイランテスと名付けられた。これは地名にもなった。 駅の開設時の賑いについてはカンバラーの章で記したので略すが、周辺の土地が区画化され、道が造られ、商店や住宅、ホテル……が次々と建てられた。 ...
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その数奇な運命 マツバラの後、ファゼンダ・ブーグレは、セラフィン・メネゲールという、やはりこの地方の事業家が買い取った。2015年4月現在、ブーグレでカナを栽培、それを原料に、バンデイランテスでエタノール工場を操業している。が、業界は危機下にあり、業者は何処も、経営は最悪事態にある。 思えば、ブーグレは数奇な運命のファゼンダであ ...
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儲けに儲ける 1961年、40アルケーレスの土地を借りて棉を作ろうとした。しかし営農資金がない。知人に相談すると、貸してくれた。この時も儲けた。借地していた40アルケーレスの土地を買えるほどだった。44歳。以後60、70、80、100アルケーレスと年々、棉の植付けを広めた。その度に儲け、土地を買い足し、また植え、また儲け……の繰 ...
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資金繰りに苦しんだ! 2014年、筆者は松原武雄の弟のスエオ氏(二世)が健在であることを知った。バンデイランテスに住んでいるという。会って筆者の推定を確認したいと思った。が、多分、先方は断るだろうことも予想できた。気の進む話ではない。 筆者は数カ月かけて紹介者を探した。その人がまた別の紹介者を探してくれた。彼らの尽力で、スエオ氏 ...
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マツバラ消滅! 一体、何が? ところが、そのマツバラが、いつの間にか消えてしまったのである。しかし、それが、いつのことか、何故そうなったのか、不明であった。1990年代のことらしかったが、当時、そのことに関する報道はなかった。チラホラ噂が流れた程度である。これは次の様な理由によろう。 1980~90年代、ブラジル経済は大破局に ...
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この1939年、姉が結婚した。それを機に、一家はイタンバラカーの大槻という日本人の農場に移った(イタンバラカーも、現在は独立した町=ムンシピオ=になっているが、当時はインガーの一部だった)。 大槻家は独立して同胞を使うまでになっていた。武雄たちは、まだ独立農にもなれずにいた。大槻農場では、山を伐り拓いてカフェーを1万5千本植え ...
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