ブラジル水泳界の英雄 岡本哲夫=日伯交流から生まれた奇跡
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ブラジル水泳界の英雄 岡本哲夫=日伯交流から生まれた奇跡=(11)=移民の子が国家的な貢献
岡本の快挙を祝って地元マリリアでは1952年9月28日に「河童祭り」と称する祝勝会が開かれ、牛3頭を焼いて1千人を招く盛大なシュラスコ会が開催された。それを報じたパウリスタ新聞52年10月2日付に
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ブラジル水泳界の英雄 岡本哲夫=日伯交流から生まれた奇跡=(10)=南半球のハンデ乗り越え
1952年6~7月は寒い冬だった。練習していたマリリアのプールがあまりに冷たく、練習を諦めることもあったほど。理想的な五輪準備にはならず、一時は「ただ参加できればいい」と諦めようかと迷うほどだったよ
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ブラジル水泳界の英雄 岡本哲夫=日伯交流から生まれた奇跡=(9)=トビウオが変えた岡本の運命
岡本の業績と人柄をまとめたドキュメンタリー映画『O nadador – A história de Tetsuo Okamoto』(以下『競泳選手』と略、2014年、26分、ポ語、ロドリ
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ブラジル水泳界の英雄 岡本哲夫=日伯交流から生まれた奇跡=(8)=反ヴァルガス的な飛魚招へい
戦争中にパジーリャの選手生命はピークを越え、1947年に現役引退。同時に、ブラジル五輪委員会にスポーツ振興の手腕をかわれて委員に就任した。48年ロンドン五輪ではブラジル代表の旗手として参加。ある意味
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ブラジル水泳界の英雄 岡本哲夫=日伯交流から生まれた奇跡=(7)=戦前からの意外な繋がり
調べてみると、確かにパジーリャは戦前からスポーツ局の仕事をしていた。ヴァルガス独裁政権からサンパウロ州執政官(1938~41年)に任命されたアデマール・バーロスからの信任が厚く、パジーリャはサンパウ
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ブラジル水泳界の英雄 岡本哲夫=日伯交流から生まれた奇跡=(6)=ヴァルガスに抵抗した反骨の人
それにしても「パジーリャ局長」とは一体何者なのか? 当時のパウリスタ新聞を見ても「パジーリャ局長」としか書いていない。日本移民が敵性国民としてさげすまれていた戦時中から特別に日本人プールに使用許可を
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ブラジル水泳界の英雄 岡本哲夫=日伯交流から生まれた奇跡=(5)=影の功労者、パジリア局長
パカエンブーのプールに日章旗掲揚を許可したサンパウロ州体育局長は、戦争中に日本人プールの使用を特別に許可した時と同じ「パジリア氏」だった。 パウリスタ新聞1950年3月28日付には、パジリア局長のコ
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ブラジル水泳界の英雄 岡本哲夫=日伯交流から生まれた奇跡=(4)=全員起立の裡に国旗は掲げられ=夜空に高く響く君が代
敗戦国だった日本は1948年開催のロンドン五輪には参加ができなかった。しかし1949年6月に日本の国際水泳連盟復帰が認められるやいなや、古橋や橋爪ら6選手は、ロサンゼルスで8月にあった全米選手権に招
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ブラジル水泳界の英雄 岡本哲夫=日伯交流から生まれた奇跡=(3)=64年前、競泳で初メダル=日本移民受難の時代に曙光
1942年1月、リオで行われた米国主導の汎米外相会議で、アルゼンチンをのぞく南米10カ国が対枢軸国経済断交を決議、ブラジル政府も同29日に枢軸国と国交断絶を宣言した。 サンパウロ州保安局は「敵性国民
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ブラジル水泳界の英雄 岡本哲夫=日伯交流から生まれた奇跡=(2)=開拓地プールでカエルと泳ぐ
父専太郎はいわゆる農業移民ではない。1892年北海道札幌市生まれのインテリで、測量技師の資格も持つ自由渡航者として1912年にイギリスからアマゾンを経て入伯した。母ツヨカは福岡県の出身だった。 専太
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