第3章 大和魂 戦争の気配がこくなると、地方での話題はもっぱら戦さに関するものになった。一九四〇年に第二次世界大戦が起こり、世界は二つに分かれた。 日本、ドイツ、イタリアによって構成されて枢軸国側に対するアメリカを中心に据えた連合国側である。ブラジル在住の日本人は集団で住んだり、集会を開いたり、日本語で話したり、あるいは政治的 ...
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日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(8)
畑仕事に明け暮れていた家とは大いに違い、ツパンの家は住家としては、申し分のないもので大変な進歩といえる。家は大きな敷地内にあり、果物の木もあり、畑を作るだけのスペースもあった。井戸からは澄んだおいしい水をくみ出すこともできた。便所は外にあったが、下水道に繋がっていた。竈(かまど)は石造りで薪をくべて煮炊きができるようになってい ...
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農園主が雇用者に対して行っている搾取はあきらかだった。彼らは自分たちの不正を隠そうとして、一九二九年にニューヨークの株市場で起きた世界大恐慌をたてにとって、安い賃金を支払いつづけていた。この世界大恐慌は主要銀行を倒産に追いこみ、アメリアの住宅システムの借財は膨れ上がる一方となり、富める国ほど生産に大きな支障をきたし、紙幣はたん ...
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このようなわけで、日本人同士団結して農業組合を立ち上げる試みが行われた。成功したものもしなかったものもあるが、ともかく、今日でも新聞を広げると、当時の移住者が経験したのと同じようなことをいまだに継続されて、昔の「タコ部屋」の奴隷同様の農村労働者がおり、労働省の係員や連邦警官に救い出されたケースなどを目にする。 二〇一一年六月半 ...
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この移民収容所は一八八七年に創設されたもので、一世紀にわたって六〇カ国余から移住者を受け入れてきた。もともと、移住者は奴隷の代わりに労働者として受け入れられていた。ところが、奴隷解放を謳った「アウレア法」が施行されると、奴隷は使用人になり、農場主は給金を支払わなければいけなくなった。その対策として移住受け入れが盛んになるのだが ...
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英新は六十二歳になるまで乗馬の経験があることを黙っていた。 それは、息子や孫たちとサンパウロ市からそう離れていないカブレウーバにキャンプに出かけた時のことだった。キャンプ場の管理人が一頭の馬を引いてきて、馬に乗りたい者がいるかと聞いてきた。英新は心が躍る思いがした。その日一日、馬に乗り、孫たちが馬に慣れてくれることを願っていっ ...
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善次郎は七年前に五人の子どもを引き連れて、神戸港からモンテヴィデオ丸に乗り、移民としてサントス港に着いたのだ。それは一九三一年のことだった。 ブラジルと日本の政府の合意により、多くの移住者がやってきて、ブラジルの農村地帯、特にコーヒー地帯の農園に配耕された。そのころのコーヒーは金のなる木だと喧伝され、その誇大広告に煽られて、農 ...
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第1章苦いコーヒー ガラスもなくカーテンもない裸の窓からは、朝日がサンサンと差しこんでいた。風もないのに歩くたびに埃がまいあがり、その日もまた朝から暑い夏の一日になることが予想された。一九三八年一月は、農家にとっては日照りが心配される年だった。もう日照りが二十二日間もつづき、まっ青に晴れわたった空には、天気が変わる兆しもない。天 ...
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