軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史
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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=一世紀半も受け継がれる家=第17回
ブラジルの早竹虎吉も、竹沢万次同様、同じ一座でやっていた〃近い筋〃のものが名乗っていた可能性が高い。 ブラジルに来た「フランキ・オリメシャ」は1854年に大阪で生まれたと伝承されているから、1867
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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第16回=幕末の軽業二名人がブラジルに?
『CIRCO-TEATRO NO SEMI-ARIDO BAIANO (1911-1942)(バイアの半砂漠地帯のサーカス劇場=1911~1942年)』(レジナルド・カルバーリョ著、09年、バイア連
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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第15回=「オリメシャ」とは誰か?
ブラジルの竹沢万次の消息を探して、ネット検索を続けるうちに、なんと、今まで日本移民史にはまったく現れてこなかった日本人軽業師の名前が出てきた。 論文『(芸術、サーカスと体育)』(Unicamp、マリ
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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第14回=意外なところにラモンの消息
鈴木南樹の記述によれば、ブラジルの竹沢万次は息子「東郷ラモン」に「Circo Imperial Japones」(日本帝国サーカス)一座を引き継いだ。ネットで検索するうちに、その消息が意外なところで
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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第13回=世界最大のサーカスがコンデ街に
突然だが、話は二十世紀に移る――。竹沢万次とは関係がないが、世界最大のサーカスが戦前、サンパウロ市の日本人集団地「コンデ街」にやってきた逸話は、日伯交流史には欠かせない。 1934年8月3日から、当
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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第12回=ブラジル芸人初訪日は1887年か
さらに調べてみると、サーカス事典シルコペディア(21日参照、www.circopedia.org/Giuseppe_Chiarini)によれば、チャリニCの1874年の極東巡業時に関して《一座はあま
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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第11回=実は意外に多い日本人同行者
大武和三郎(当時17歳)は1889年7月、横浜に寄港したアルミランテ・バローゾ号のアウグスト・レオポルド殿下に気に入られ、同乗を許された。太平洋横断中に「帝政崩壊」となったが、翌90年7月にリオへ無
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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第10回=南樹と符号するチャリニ同行説
ロペス論文によれば、チャリニCの第1回南米巡業ではチリ、亜国から北上して1871年~72年に南大河州、リオ、バイア、ペルナンブッコ、パラーと北上した。 第2回南米巡業では1875年10月~77年5月
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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第9回=チャリニ曲馬団同行説
万次がいつ、どうやって渡伯したのか――この謎を解くカギはどこにあるのか。鈴木南樹は「1870年頃」に来たと書くが、どうやって来たかに触れていない。今まで見てきた中で、考えられるのは次の三つだ。【サツ
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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第8回=三好「本筋の人間ではない」
当時の芸の具体的なイメージが湧かない。 1886年にブラジルのエスタード紙の広告で「手のひら40個分の怪物〃日本の階段〃(A escada japoneza)。つま先で均衡を保ち、上に子供を載せる曲