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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史

軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第7回=幕末、米大統領に歓待された芸人

外国奉行が慶応2年に発行した海外渡航免許(『サ物語』26頁)

 『サ物語』の三好によれば、日本への西洋サーカスの初上陸は、幕末の文久4(1864)年3~5月に横浜で興行をした米国リズリー・サーカス一座だという。黒船が大砲を振りかざしてむりやり開国させた後、グローバリゼーションの〃先兵〃として訪日したのはサーカス団だった。 このリズリーが横浜の米国領事館をくどいて、日本人初の軽業・曲芸師18 ...

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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第6回=江戸末期の超人気芸人「万治」

1897年に米ニューヨークで公演した両国一座のポスター(フリードレンダー製作、『サ物語』137頁)

 19世紀末、ペルーにも日本人軽業師は巡業していたようだ。アルゼンチンの『日本移民発祥の地コルドバ』(大城徹三著、1997年)によれば、《ペルーのリマに軽業師一座が二回来ている。二回目は一八八八年二月で興行師はチャス・コメリーでチョンマゲを結って裃姿で紙の蝶々を自由自在に飛ばし大好評を受けた。一回目はそれ以前に来ている―という訳 ...

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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第5回=サンパウロ市に文化をもたらしたサーカス

日本人軽業師が公演した旧サンジョゼ劇場は、19世紀の聖市における文化の中心。焼失する前の貴重な写真

 前節でエスタード紙1886(明治19)年9月4日付の「コンパニア・ジャポネーザが、サンジョゼ劇場で様々な演目を行う」と紹介した。このサンジョゼ劇場は現在、存在しない。 ヴェージャSP電子版(vejasp.abril.com.br/materia/o-teatro-sao-jose)によれば、同劇場は1864年にラルゴ・サンゴン ...

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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第4回=1886年にサンパウロ市で絶賛された一座

1886年2月28日付エスタード紙にでたシルコ・ペリの広告に日本人軽業師の演目がある

 ウルグアイ、アルゼンチンで公演しているなら、当然ブラジルでもしているはず――と考え、サンパウロ州で一番古くて現存する新聞「エスタード・デ・サンパウロ」紙のデジタル・アーカイブ(電子書庫)で探してみたが、見つからなかった。 おもえばサツマ座のウルグアイ、亜国公演は1873年。エスタード紙の創刊はその2年後、1875年だった。当然 ...

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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第3回=1873年に亜国で公演

ウルグアイで公演した「サツマ」座の記事(前田直美さん調査、エル・フェロカリル・モンテヴィデオ」より)

 江戸末期から明治最初の頃の軽業師は日本の民間人初の洋行者であり、日本独特の文化を見せてお金を稼ぐ文化的ビジネスの大成功者だった。 鈴木南樹の記述には《ウルグアイ、アルゼンチンまで股にかけて興行してまわった》とあるが、調べて見ると、実際に明治初期に両国で日本の曲芸団が公演した記録が残っていた。竹沢万次の一座かどうかの確証はないが ...

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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第2回=拳銃自殺図った悲劇の芸人ラモン

竹沢万次の息子ラモンと妻アルレテ(『足跡』より)

 1870年といえば、明治3年――維新政府発足間もないころ、笠戸丸より38年も古い。そんなころにブラジルに上陸した日本人とは、どんな人々だったのか。 藤崎商会の藤崎三郎助以外に、もう一人だけ直接に万次と対話した人物のことが『足跡』に書かれている。1916年にミナス州ウベラーバで畜産技師をしていた石橋恒四郎(つねしろう)だ。 鈴木 ...

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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第1回=明治3年頃に上陸、全伯公演?

ブラジルの竹沢万次と同時期、日本に有名な竹沢万“治”がいた。1868年5月の興行時、竹澤萬治の曲独楽の絵ビラ(見世物興行年表サイトより。≪木版墨摺・芳春画・本清板≫(大阪府中之島図書館蔵/「摂陽観場画譜」五十九)

 国交を開いた「日伯通商修好航海条約」(1895年)が調印される遥か前から、ブラジルに住んでいた日本人が何人かいた。いわゆる「農業移民」ではない。当地初とおぼしき「日本人自由渡航者」に軽業師「竹沢万次」がいる。なんと1870年頃に自らサーカス一座を率いて、リオからアマゾナスや南大河州、さらに南のウルグアイやアルゼンチンまで巡業し ...

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