19世紀末、ペルーにも日本人軽業師は巡業していたようだ。アルゼンチンの『日本移民発祥の地コルドバ』(大城徹三著、1997年)によれば、《ペルーのリマに軽業師一座が二回来ている。二回目は一八八八年二月で興行師はチャス・コメリーでチョンマゲを結って裃姿で紙の蝶々を自由自在に飛ばし大好評を受けた。一回目はそれ以前に来ている―という訳 ...
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軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第5回=サンパウロ市に文化をもたらしたサーカス
前節でエスタード紙1886(明治19)年9月4日付の「コンパニア・ジャポネーザが、サンジョゼ劇場で様々な演目を行う」と紹介した。このサンジョゼ劇場は現在、存在しない。 ヴェージャSP電子版(vejasp.abril.com.br/materia/o-teatro-sao-jose)によれば、同劇場は1864年にラルゴ・サンゴン ...
続きを読む »軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第4回=1886年にサンパウロ市で絶賛された一座
ウルグアイ、アルゼンチンで公演しているなら、当然ブラジルでもしているはず――と考え、サンパウロ州で一番古くて現存する新聞「エスタード・デ・サンパウロ」紙のデジタル・アーカイブ(電子書庫)で探してみたが、見つからなかった。 おもえばサツマ座のウルグアイ、亜国公演は1873年。エスタード紙の創刊はその2年後、1875年だった。当然 ...
続きを読む »軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第3回=1873年に亜国で公演
江戸末期から明治最初の頃の軽業師は日本の民間人初の洋行者であり、日本独特の文化を見せてお金を稼ぐ文化的ビジネスの大成功者だった。 鈴木南樹の記述には《ウルグアイ、アルゼンチンまで股にかけて興行してまわった》とあるが、調べて見ると、実際に明治初期に両国で日本の曲芸団が公演した記録が残っていた。竹沢万次の一座かどうかの確証はないが ...
続きを読む »軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第2回=拳銃自殺図った悲劇の芸人ラモン
1870年といえば、明治3年――維新政府発足間もないころ、笠戸丸より38年も古い。そんなころにブラジルに上陸した日本人とは、どんな人々だったのか。 藤崎商会の藤崎三郎助以外に、もう一人だけ直接に万次と対話した人物のことが『足跡』に書かれている。1916年にミナス州ウベラーバで畜産技師をしていた石橋恒四郎(つねしろう)だ。 鈴木 ...
続きを読む »軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第1回=明治3年頃に上陸、全伯公演?
国交を開いた「日伯通商修好航海条約」(1895年)が調印される遥か前から、ブラジルに住んでいた日本人が何人かいた。いわゆる「農業移民」ではない。当地初とおぼしき「日本人自由渡航者」に軽業師「竹沢万次」がいる。なんと1870年頃に自らサーカス一座を率いて、リオからアマゾナスや南大河州、さらに南のウルグアイやアルゼンチンまで巡業し ...
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