日本語支援が必要な子供たちへの対応がどのように違うのか、県東部のいくつかの市町に聞いてみた。 【沼津市】フィリピン・ブラジルにつながる子供が多い、集住学区とそうでない学区がある。 ◎外国籍児童生徒へ母語支援をする場合と、それ以外の日本語支援を担当する管轄が違う。 ◎フィリピノ語・英語とスペイン語で支援できる職員を市で雇用し市内 ...
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静岡県=外国人子ども支援員養成講座=来日児童生徒をどう受け止めるか=(2)=集住地区と散在地区で支援に差
「各会場20人を目標に人材発掘・育成をしたいと考えていたが、平日の昼間4日間という講座に関わらず、各会場40人を超える応募があった」と村川さん。 特に沼津会場では外国人の参加者が多く、申込受付者の46人中12人が外国人。子育てが一段落した「当事者の親」が、地域問題に取り組もうとする熱意が感じられた。 ◎ 第1回の ...
続きを読む »静岡県=外国人子ども支援員養成講座=来日児童生徒をどう受け止めるか=(1)=試行錯誤する地方自治体
【静岡県発=秋山郁美通信員】増加・多様化する「日本語支援が必要な児童生徒」に対応しきれない日本の教育現場――静岡県は、来日したばかりの児童・生徒に初期の日本語を指導する支援員を養成する「外国人子ども支援員養成講座」を7月から9月まで4回にわたって県内3会場で行った。講座を修了した受講生は県国際交流協会の人材バンクに登録され、県 ...
続きを読む »ブラジル水泳界の英雄 岡本哲夫=日伯交流から生まれた奇跡=(11)=移民の子が国家的な貢献
岡本の快挙を祝って地元マリリアでは1952年9月28日に「河童祭り」と称する祝勝会が開かれ、牛3頭を焼いて1千人を招く盛大なシュラスコ会が開催された。それを報じたパウリスタ新聞52年10月2日付によれば、父専太郎が「泳ぎ始めはわしの観海流(日本古来の遠泳法の一つ)を仕込んだもので…」などと始終、上機嫌だったという。 映画『 ...
続きを読む »ブラジル水泳界の英雄 岡本哲夫=日伯交流から生まれた奇跡=(10)=南半球のハンデ乗り越え
1952年6~7月は寒い冬だった。練習していたマリリアのプールがあまりに冷たく、練習を諦めることもあったほど。理想的な五輪準備にはならず、一時は「ただ参加できればいい」と諦めようかと迷うほどだったようだ。 ちなみに、今回のリオ五輪は、近代オリンピックとしては第31回目で南米初。それ以前に南半球で開催したのは、2000年のシド ...
続きを読む »ブラジル水泳界の英雄 岡本哲夫=日伯交流から生まれた奇跡=(9)=トビウオが変えた岡本の運命
岡本の業績と人柄をまとめたドキュメンタリー映画『O nadador – A história de Tetsuo Okamoto』(以下『競泳選手』と略、2014年、26分、ポ語、ロドリゴ・グロッタ監督)で、姉の鈴枝さんは弟の性格を《とにかく控えめで、あまり社交的ではなかった。勉強よりも、ひたすらスポーツに打ち込ん ...
続きを読む »ブラジル水泳界の英雄 岡本哲夫=日伯交流から生まれた奇跡=(8)=反ヴァルガス的な飛魚招へい
戦争中にパジーリャの選手生命はピークを越え、1947年に現役引退。同時に、ブラジル五輪委員会にスポーツ振興の手腕をかわれて委員に就任した。48年ロンドン五輪ではブラジル代表の旗手として参加。ある意味、そこからが彼の本領発揮だった。 戦後もヴァルガスとの確執は続いた。ヴァルガスは1951年1月に、今度は選挙で選ばれて大統領に返り ...
続きを読む »ブラジル水泳界の英雄 岡本哲夫=日伯交流から生まれた奇跡=(7)=戦前からの意外な繋がり
調べてみると、確かにパジーリャは戦前からスポーツ局の仕事をしていた。ヴァルガス独裁政権からサンパウロ州執政官(1938~41年)に任命されたアデマール・バーロスからの信任が厚く、パジーリャはサンパウロ市アグア・ブランカ区のベイビ・バリオニ体育複合施設、イビラプエラ体育複合施設コンスタンチノ・ヴァス・ギマランエスなどの建設を開始 ...
続きを読む »ブラジル水泳界の英雄 岡本哲夫=日伯交流から生まれた奇跡=(6)=ヴァルガスに抵抗した反骨の人
それにしても「パジーリャ局長」とは一体何者なのか? 当時のパウリスタ新聞を見ても「パジーリャ局長」としか書いていない。日本移民が敵性国民としてさげすまれていた戦時中から特別に日本人プールに使用許可を出し、勝ち負け抗争の余韻が強い終戦5年目に日章旗掲揚に許可を出すほど、日本移民に肩入れした。そのくせに「パジーリャ氏」としか出てこ ...
続きを読む »ブラジル水泳界の英雄 岡本哲夫=日伯交流から生まれた奇跡=(5)=影の功労者、パジリア局長
パカエンブーのプールに日章旗掲揚を許可したサンパウロ州体育局長は、戦争中に日本人プールの使用を特別に許可した時と同じ「パジリア氏」だった。 パウリスタ新聞1950年3月28日付には、パジリア局長のコメントが掲載され、《この大会に外国選手が参加するということはかつてなかった。この例を破ったこと、そのものに我々は非常な悦びを感じて ...
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