敗戦国だった日本は1948年開催のロンドン五輪には参加ができなかった。しかし1949年6月に日本の国際水泳連盟復帰が認められるやいなや、古橋や橋爪ら6選手は、ロサンゼルスで8月にあった全米選手権に招待参加し、400メートル自由形、800メートル自由形、1500メートル自由形で「世界新記録」を樹立した。 サンフランシスコ講和条約 ...
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ブラジル水泳界の英雄 岡本哲夫=日伯交流から生まれた奇跡=(3)=64年前、競泳で初メダル=日本移民受難の時代に曙光
1942年1月、リオで行われた米国主導の汎米外相会議で、アルゼンチンをのぞく南米10カ国が対枢軸国経済断交を決議、ブラジル政府も同29日に枢軸国と国交断絶を宣言した。 サンパウロ州保安局は「敵性国民」に対する取締令として、「自国語で書かれたものの頒布禁止」「公衆の場での自国語の使用禁止」「保安局発給の通行許可証なしの移動禁止」 ...
続きを読む »ブラジル水泳界の英雄 岡本哲夫=日伯交流から生まれた奇跡=(2)=開拓地プールでカエルと泳ぐ
父専太郎はいわゆる農業移民ではない。1892年北海道札幌市生まれのインテリで、測量技師の資格も持つ自由渡航者として1912年にイギリスからアマゾンを経て入伯した。母ツヨカは福岡県の出身だった。 専太郎は息子に「お前はサムライの子孫だ」と説いたほどだから、実際に士族の出で、明治期に本土から北海道開拓に入った家系かもしれない。 1 ...
続きを読む »ブラジル水泳界の英雄 岡本哲夫=日伯交流から生まれた奇跡=(1)=64年前、競泳で初メダル
いよいよリオ五輪が本日開会式を迎えるにあたり、ブラジル水泳界および日系社会共に初の五輪メダルをもたらした二世・岡本哲夫(1932年生まれ~2007年没)の歴史を振り返ってみたい。彼が表彰台の3位に登ったのは、64年前の8月3日。1952年のヘルシンキ五輪(フィンランド)の1500メートル自由形競泳だ。しかも、その時の表彰台には ...
続きを読む »日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(39・最終回)
第18章 百周年祭 二〇〇八年に日本人移住百年記念祭典が行われた時、平英新は八〇歳の誕生日を迎えた。妻のカンディダや息子のリカルド、娘のヤラ、それに孫のメリッサ、ウェスレイ、ドウグラス、カタリナ、嫁のマリアやその他の縁者たちは、サンパウロ州の海岸ぺルイベで2重の慶事を祝うことにした。 その日、つまり、二〇〇八年二月二八日にこの ...
続きを読む »日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(38)
リンコンとエリザベッチは彼女の母親が住むベルフォルド・ロッショの家に移り住むことになった。ベルフォルド・ロッショはドゥッケ・デ・カシアスの隣町である。そして、何カ月か後に二人は離婚した。その同じ頃、エリオの未亡人となったアダルジザは苦労して建てた自分の家に住むためにベルフォルド・ロッショに引っ越した。しかし、その前に、彼女は兵 ...
続きを読む »日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(37)
例えば、長崎在住のジャーナリストの平田サエコなどは二〇一〇年二月になって、はじめて父親の平田研之(けんし)が二重の被爆者だった事実を知らされたのだ。父親は九十一歳になっていて、聞かれても原爆に遭った当時のことを話したがらなかった。 まだ青年であった研之は広島で被爆し、長崎に妻の遺骨をもっていったのだった。彼は再婚し、過去のこと ...
続きを読む »日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(36)
第15章 出稼ぎ 兵譽が夢見ていた日本への帰還は、一九八〇年代を境に、日本の経済成長に伴い工場などでの労働者が不足したために起こった。日本の経済成長が生んだ現象だ。「デカセギ」という言葉は、「出る」と「稼ぐ」を複合してできたものだ。 日本の法令は日系人の第3世代(三世)までの日本滞在を許可したから、秋雄の息子や孫たち、幾人かの ...
続きを読む »日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(35)
ブラジルで、最初にサッカーの試合に出た日本人は三浦知良選手だった。「カズ」と呼ばれていたこの選手は15歳のときに一人でブラジルに渡り、モッカのジュヴェントス・スポーツクラブのジュニアチームで練習した。彼はサントスチームや日本のサッカー代表チームで輝かしい活躍をした。イタリアでもサッカーをやった。 日系ブラジル人でトカンチンス生 ...
続きを読む »日本移民108周年記念=囚人の署名 平リカルド著 (翻訳)栗原章子=(34)
第14章 店主となって 戦後、リオのドゥッケ・デ・カシアス町でも、ブラジルの軍部の守護神ルイス・アルヴェス・デ・シルヴァに敬意を表して賑わっていた。特に一九六一年にペトロブラス社の製油所ができてからは、大規模な労働者の雇用があり、地域の住民を正社員として雇用していたので、ドゥッケ・デ・カシアスの町は繁栄していた。 町の商店も潤 ...
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