半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住
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半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(10)=ブラジル移住を決心
戦争の記憶を語り終えた半沢さんは「戦争っていうのは、もう…」と考え込むように口を噤んだ。「誰それがどんな風に死んだとか、しょっちゅう聞いて、自分らもそろそろ終わりかと思っていた。戦争中、逃げるために
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半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(9)=日本引揚げと父の死
またしばらく経ち、帰国手続きが始まった。 家族ごとにまとめられた書類がマニラの司令部に送られ、日本への引き揚げ日が決められていった。書類はいい加減に扱われていたためか、送られる港や日にちの違いで家
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半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(8)=収容所で家族と再会
収容所での食事は1日2食、1人1枚食券を貰い、配給所に並んだ。食事は日本兵が作り、1人ずつ渡していた。 収容所に着いて数日経った頃、配給待ちの列に並んでいた半沢さんは隣の列の男が気になって仕方なか
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半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(7)=恐る恐る米軍の収容所へ
ある日、部落の入り口で原住民が騒いでいる音が聞こえた。見に行くと、半沢さん達を探す伍長が原住民と怒鳴りあっていた。 半沢さんを見つけた伍長は「俺はこれから米軍の収容所に行く。お前らも皆行かなきゃな
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半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(6)=原住民からの終戦の知らせ
伍長を手伝い、川のすぐ近くまで遺体を運んだ。伍長は小刀を遺体の胃の辺りに刺し込むと一気に臍まで引いた。裂けた場所から青っぽい液体が出てきた。 液体を見た伍長は「肉が悪くなっている」と笑い、遺体を川
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半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(5)=死にかけた日本兵と蛆虫
掌を上に向け手先を動かしてこちらを呼んでいるため、米兵だと気付いた。八郎が半沢さんにぴったりと体をくっつけた。「走るぞ!」という掛け声とともに逃げ始めたが、途中で八郎が恐怖のあまり泣き始めた。 「
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半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(4)=死と隣り合わせの逃避行
半沢さんはおじさんのもとに戻り、母親の状態と同行できないことを伝え、再び小屋に戻った。昼頃におじさんが小屋に顔を出し、母親を診ていた。 母がこのまま死ぬのではという不安に耐えられず、半沢さんが泣い
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半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(3)=予期しなかった母親の死
逃避行で向っている方向、島の反対側からも米軍が攻めて来ている、という知らせを受けた。進路を変え、急いで逃げ場所を求めて歩いた。疲れて歩けなくなった妹は引きずられるようにして進んだ。 雨季の最中に何
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半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(2)=米軍の再上陸、雨の逃避行
太平洋戦争緒戦における日本軍のフィリピン進攻作戦は1941年12月8日に始まり、翌42年5月10日に制圧を終えた。 フィリピン当初は45日で主要部を攻略できると判断され、担当部隊として第14軍が編
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半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(1)=「全てを忘れる気で日本出た」
サンパウロ州アチバイア市の豊かな自然に囲まれた家に住む半沢友三郎さん(82)は、「ヨ(自分)らも終わりかなと思っていた」と遠くを見つめながら回想した。半沢さんは1935年12月22日にフィリピンのミ