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半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住

半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(10)=ブラジル移住を決心

第13航ぶらじる丸移住者らの集合写真(中段左2人目から友三郎さん、久四郎さん)

 戦争の記憶を語り終えた半沢さんは「戦争っていうのは、もう…」と考え込むように口を噤んだ。「誰それがどんな風に死んだとか、しょっちゅう聞いて、自分らもそろそろ終わりかと思っていた。戦争中、逃げるために自分の赤ん坊を殺した人もいた。酷いものだった」と回想し、呟くように「戦争っていうのは、ひどいですよ」と繰り返した。  母方の祖母は ...

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半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(9)=日本引揚げと父の死

旧鳥川村の村長も務めた栄作さん

 またしばらく経ち、帰国手続きが始まった。  家族ごとにまとめられた書類がマニラの司令部に送られ、日本への引き揚げ日が決められていった。書類はいい加減に扱われていたためか、送られる港や日にちの違いで家族と離れてしまう人もいた。  運悪く半沢さん以外の兄弟は鹿児島県に送られ、父と半沢さんは別の日程で神奈川県横須賀市の浦賀港へ送られ ...

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半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(8)=収容所で家族と再会

生前の父周作(右)

 収容所での食事は1日2食、1人1枚食券を貰い、配給所に並んだ。食事は日本兵が作り、1人ずつ渡していた。  収容所に着いて数日経った頃、配給待ちの列に並んでいた半沢さんは隣の列の男が気になって仕方なかった。男は海軍の制服を身に着けていたが、寒そうに毛布で全身を覆っていた。  男の顔を見ようと前に出ると、「おう、友!」と男に呼ばれ ...

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半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(7)=恐る恐る米軍の収容所へ

バレテ峠を匍匐前進する米軍歩兵(From Wikimedia Commons)

 ある日、部落の入り口で原住民が騒いでいる音が聞こえた。見に行くと、半沢さん達を探す伍長が原住民と怒鳴りあっていた。  半沢さんを見つけた伍長は「俺はこれから米軍の収容所に行く。お前らも皆行かなきゃならん」と告げて行ってしまった。  数日後、またも見張り役の原住民が不在だった。半沢さん達は「ちょうど良い」と部落を脱出し、米軍の収 ...

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半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(6)=原住民からの終戦の知らせ

レイテ作戦中の米軍の歩兵(Public Domain)

 伍長を手伝い、川のすぐ近くまで遺体を運んだ。伍長は小刀を遺体の胃の辺りに刺し込むと一気に臍まで引いた。裂けた場所から青っぽい液体が出てきた。  液体を見た伍長は「肉が悪くなっている」と笑い、遺体を川に蹴り落とした。      ◎  伍長は洞窟から一歩も出なかった。炊事や水汲みなどの仕事は、全部半沢さん達がこなした。  その内、 ...

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半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(5)=死にかけた日本兵と蛆虫

「アイシャルリターン(必ず戻ってくる)」の言葉通り、フィリピンに戻ってきたマッカーサー元帥(1944年10月20日、By U.S. Army Signal Corps officer Gaetano Faillace [1] [Public domain], via Wikimedia Commons)

 掌を上に向け手先を動かしてこちらを呼んでいるため、米兵だと気付いた。八郎が半沢さんにぴったりと体をくっつけた。「走るぞ!」という掛け声とともに逃げ始めたが、途中で八郎が恐怖のあまり泣き始めた。  「いつ撃たれるか」と恐怖しながら、真っ暗な薮の中をめちゃくちゃに走り逃げ、疲れて進めなくなったところで寝てしまった。  朝起きると兵 ...

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半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(4)=死と隣り合わせの逃避行

フィリピンの戦いにおける日本軍の銀輪部隊(By Japanese military personnel, via Wikimedia Commons)

 半沢さんはおじさんのもとに戻り、母親の状態と同行できないことを伝え、再び小屋に戻った。昼頃におじさんが小屋に顔を出し、母親を診ていた。  母がこのまま死ぬのではという不安に耐えられず、半沢さんが泣いていると、突然母が上体を起こし、「ご飯作らな!」と半沢さんを叱り飛ばした。  唖然とする半沢さんの前で、また眠るように倒れ、鼾をか ...

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半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(3)=予期しなかった母親の死

フィリピン時代の家族写真。左がお母さん(半沢家所蔵)

 逃避行で向っている方向、島の反対側からも米軍が攻めて来ている、という知らせを受けた。進路を変え、急いで逃げ場所を求めて歩いた。疲れて歩けなくなった妹は引きずられるようにして進んだ。  雨季の最中に何千人もが通ったので道は踏みならされて泥々。爆撃により大きな穴が開いた部分には泥水が流れこみ、一目では穴があることが判らなくなってい ...

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半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(2)=米軍の再上陸、雨の逃避行

フィリピンのルソン島リンガエン湾に進入する戦艦ペンシルベニア以下の米第7艦隊(By U.S. Navy photo 80-G-59525 [Public domain], via Wikimedia Commons)

 太平洋戦争緒戦における日本軍のフィリピン進攻作戦は1941年12月8日に始まり、翌42年5月10日に制圧を終えた。  フィリピン当初は45日で主要部を攻略できると判断され、担当部隊として第14軍が編成され、司令官に本間雅晴中将が任命された。主力部隊は12月22日にルソン島に上陸し、1月2日には首都マニラを占領。  しかし、アメ ...

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半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(1)=「全てを忘れる気で日本出た」

当時の記憶を語る半沢さん(右)と妻桂子さん

 サンパウロ州アチバイア市の豊かな自然に囲まれた家に住む半沢友三郎さん(82)は、「ヨ(自分)らも終わりかなと思っていた」と遠くを見つめながら回想した。半沢さんは1935年12月22日にフィリピンのミンダナウ島ダバオ市で生まれ、第2次世界大戦時の激烈な「フィリピンの戦い」(日本軍が侵攻したのは1941―42年、連合軍が占領したの ...

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