2018年
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銃剣とブルドーザー=米軍に美田奪われた伊佐浜移民=(4)=強制接収から2年、ブラジルへ
戦中のことを語る屋良さん サンパウロ市カーザ・ヴェルデ地区在住の伊佐浜移民、屋良朝二(やら・ともじ)さん(78)の一家は戦前、フィリピン・ダバオでマニラ麻の農園に従事していた。戦争が始まると敵性国民
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銃剣とブルドーザー=米軍に美田奪われた伊佐浜移民=(3)=「犬コロのように追い払われた」
銃剣を構えた米兵とブルドーザー、クレーン、ダンプカー、トラックが現れたのは、7月19日のまだ日の昇りきらない早朝4時半のことだった。接収は前日の18日に予定されていたので、地主の一人は「予期はしてい
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銃剣とブルドーザー=米軍に美田奪われた伊佐浜移民=(2)=戦中、機関銃で家族3人失う
「本当は戦争のことも、土地闘争のことも話したくありません」。そう切り出したのは伊佐浜移民のひとり澤岻安信(たくし・あんしん)さん(85)だ。昨年末、澤岻さんの知人宅で取材した際、同席した同県人にウチ
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銃剣とブルドーザー=米軍に美田奪われた伊佐浜移民=(1)=「男たちに任せておけない」
終戦から10年目の1955年7月19日、「沖縄有数の美田」といわれた宜野湾市伊佐浜の土地、さらに家屋までが米軍によって強制接収された。土地を失った10家族が縁故のいない未知の国、ブラジルに移住したの
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半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(10)=ブラジル移住を決心
戦争の記憶を語り終えた半沢さんは「戦争っていうのは、もう…」と考え込むように口を噤んだ。「誰それがどんな風に死んだとか、しょっちゅう聞いて、自分らもそろそろ終わりかと思っていた。戦争中、逃げるために
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半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(9)=日本引揚げと父の死
またしばらく経ち、帰国手続きが始まった。 家族ごとにまとめられた書類がマニラの司令部に送られ、日本への引き揚げ日が決められていった。書類はいい加減に扱われていたためか、送られる港や日にちの違いで家
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半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(8)=収容所で家族と再会
収容所での食事は1日2食、1人1枚食券を貰い、配給所に並んだ。食事は日本兵が作り、1人ずつ渡していた。 収容所に着いて数日経った頃、配給待ちの列に並んでいた半沢さんは隣の列の男が気になって仕方なか
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半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(7)=恐る恐る米軍の収容所へ
ある日、部落の入り口で原住民が騒いでいる音が聞こえた。見に行くと、半沢さん達を探す伍長が原住民と怒鳴りあっていた。 半沢さんを見つけた伍長は「俺はこれから米軍の収容所に行く。お前らも皆行かなきゃな
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半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(6)=原住民からの終戦の知らせ
伍長を手伝い、川のすぐ近くまで遺体を運んだ。伍長は小刀を遺体の胃の辺りに刺し込むと一気に臍まで引いた。裂けた場所から青っぽい液体が出てきた。 液体を見た伍長は「肉が悪くなっている」と笑い、遺体を川
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半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(5)=死にかけた日本兵と蛆虫
掌を上に向け手先を動かしてこちらを呼んでいるため、米兵だと気付いた。八郎が半沢さんにぴったりと体をくっつけた。「走るぞ!」という掛け声とともに逃げ始めたが、途中で八郎が恐怖のあまり泣き始めた。 「