新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩
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新日系コミュニティ構築の“鍵”を歴史の中に探る=傑物・下元健吉(33)=その志、気骨、創造心、度胸、闘志…=外山 脩
人物は底をついた! 以上、下元健吉の生涯と事業を概観した。 それを終えた後、強烈な光を発しつつ、筆者の心に残ったのは、その志、気骨、創造心、度胸、闘志…である。 日系の血の継承者が、彼に学ぶもの
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新日系コミュニティ構築の“鍵”を歴史の中に探る=傑物・下元健吉(32)=その志、気骨、創造心、度胸、闘志…=外山 脩
下元健吉の死後も、コチア産組は拡大を続けた。 特に1960年代後半からの連邦政府の農業奨励策で、上昇気流に乗った。恩典付き融資で、組合員は営農規模を広めた。大型機械を導入、穀物生産に乗り出した。組
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新日系コミュニティ構築の“鍵”を歴史の中に探る=傑物・下元健吉(31)=その志、気骨、創造心、度胸、闘志…=外山 脩
下元健吉は、生身の人間らしく、その生涯を通じて多くの失敗を犯し、最後までそうであった。が、並の人間には成し難い何事かをし遂げたことは確かである。 ところで、命をかけて追求し続けた“新社会”について
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新日系コミュニティ構築の“鍵”を歴史の中に探る=傑物・下元健吉(30)=その志、気骨、創造心、度胸、闘志…=外山 脩
最後の失敗 下元健吉の最期は、いかにも彼らしい劇的な幕切れであった。 しかし、これは、その生涯に於ける最後の失敗でもあった。自身の健康管理を怠り、なすべきことをやり残したまま逝ってしまった――と
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新日系コミュニティ構築の“鍵”を歴史の中に探る=傑物・下元健吉(29)=その志、気骨、創造心、度胸、闘志…=外山 脩
急逝! 繰り返しになるが、下元健吉は絶頂期の…その波頭の上に立っていた。 人の運命とは不思議なもので、こういう時が危ない。 農業展覧会から5カ月後の9月、その25日の昼食時刻、組合本部事務所三階
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新日系コミュニティ構築の“鍵”を歴史の中に探る=傑物・下元健吉(28)=その志、気骨、創造心、度胸、闘志…=外山 脩
波頭の上に… 1955年のコチア青年の導入開始後、組合員の出荷総量は伸び続けた。下元の目論見は当たったのである。 1957年4月、コチア産組は創立30周年を記念して――ジャグアレー区に入手した土地
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新日系コミュニティ構築の“鍵”を歴史の中に探る=傑物・下元健吉(27)=その志、気骨、創造心、度胸、闘志…=外山 脩
謎の奇策二件(下) 次に、もう一件の新政策であるが――。 コチア青年の導入が始まった1955年、下元はジャグァレー区の肥料・飼料工場に隣接する6万平方メートルの土地を購入しようとした。 それを聞
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新日系コミュニティ構築の“鍵”を歴史の中に探る=傑物・下元健吉(26)=その志、気骨、創造心、度胸、闘志…=外山 脩
謎の奇策二件(上) 1950年代、コチア産組専務理事・下元健吉は、新政策を二件、打ち出した。いずれも誰も予想しておらず、理解もできなかった――という意味で奇策であった。 一件は日本からの大量の青年
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新日系コミュニティ構築の“鍵”を歴史の中に探る=傑物・下元健吉(25)=その志、気骨、創造心、度胸、闘志…=外山 脩
マズかった南銀との絶交 南銀としては、コチアは、そこで動く金の量からしても、是非欲しい顧客であった。が、下元がそうであったため、1957年の彼の死後も、後継者は南銀との取引はしなかった。 そのコチ
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新日系コミュニティ構築の“鍵”を歴史の中に探る=傑物・下元健吉(24)=その志、気骨、創造心、度胸、闘志…=外山 脩
〃足〃で書かなかった邦字新聞 パウリスタ新聞は、経営面でもゴタゴタが続いた。下元が乗り出したが、うまく行かず投げ出してしまった。つまり下元は、ここでも失敗している。 なお付記しておけば、パウリス