新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩
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新日系コミュニティ構築の“鍵”を歴史の中に探る=傑物・下元健吉(23)=その志、気骨、創造心、度胸、闘志…=外山 脩
付記すれば、この間、信念派が大量に拘留されていたDOPSや未決囚拘置所に、コチアのマークを車体に記したカミニョン(トラック)が出入りする姿が、拘留者から目撃されている。 それを見て、常盤ホテルの集
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新日系コミュニティ構築の“鍵”を歴史の中に探る=傑物・下元健吉(22)=その志、気骨、創造心、度胸、闘志…=外山 脩
1946年4月1日、サンパウロ市内で認識運動の指導者格だった古谷重綱、野村忠三郎が襲撃され、野村が落命した。 その直後、ポ語新聞は一斉に臣道聯盟の特攻隊のテロだと報じた。これは誤報であったが、
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新日系コミュニティ構築の“鍵”を歴史の中に探る=傑物・下元健吉(21)=その志、気骨、創造心、度胸、闘志…=外山 脩
常盤ホテルの集会のすぐ後、日本の外務大臣から国際赤十字社を経て、邦人社会向けの電報が送信されてきた。終戦の詔勅の写し(ただし英文)であった。 これを敗戦派の有志が、広報することになった。彼らは、詔
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新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩=(20)
右の騒乱は、実は、その前哨戦の様なものが、戦時中に始まっていた。1943年から地方の邦人農家が襲撃されるという事件が頻発していたのである。 各地で養蚕舎が焼き討ちされたり、薄荷畑やその油の抽出機具
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新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩=(19)
乱調 下元健吉の生涯は、成功と失敗の繰り返しであった。それが起伏が大きく激しい波の様に続いた。 戦中は、打つ手打つ手が当たり、危機を事業面での飛躍という奇跡的現象に転換させた。 これは1934年
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新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩=(18)
話を戻すが、役員をブラジル人に入れ代える時、下元は「経営の実権は、この俺がシッカリ握る」と周囲に明言していた。が、多くの組合員は危ぶんでいた。結果的には、補佐役に過ぎない下元が、役員を駆使しているの
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新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩=(17)
下元は政府の圧迫を見事切り抜けた。が、圧迫はこれで終わりではなかった。 執拗なことに、別方面からも来たのだ。在サンパウロ米国総領事館が、関係機関に干渉、コチアに対するガソリンの配給を止めさせたので
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新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩=(16)
全伯産青連の委員長になった下元健吉は、新社会建設に着手した。 彼は燃えていた。一資料によれば「コチアの経営は人に任せ、自分が中央会に乗り込んで、本格的に取り組もう」とすら考えていたという。「乗り込
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産青連(下) 1938年、下元健吉は動き始めた。中央会に属する組合を各地に訪れ、若者に産組論を説き、目標を与え奮起させ、結集させようとした。 1939年の年頭には、コチアの機関誌で、こう唱えている
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新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩=(14)
産青連(上) 年輩の組合員がそうであったため、下元は若者に期待した。 折から、日本では産業組合の改革運動が、農村の青年によって活発に展開され、全国的な広がりを見せていた。彼らは産業組合青年連盟(産