連載
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ざっくばらんに行こう!=ニッケイ新聞合併15周年記念座談会=(9)=ドイツ系新聞は世界戦略?
ニッケイ新聞 2013年9月10日 若松=読者が少なくなって購読料収入が減ってくるし、広告も減ってくる。そういう状態の中でね、これだけの新聞よく作っているって、毎日感心しています。深沢=毎日のように「
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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (41)=〃南米浪人〃岡田芳太郎=蝸牛の如く徒歩16万キロ
ニッケイ新聞 2013年9月7日 当時レジストロ地方の植民地開発の魅力は広く知れ渡り、世界から日本人が集まっていた。なかでもレジストロで客死した〃世界徒歩旅行家〃岡田芳太郎は、謎の経歴をもつ人物だ。
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ざっくばらんに行こう!=ニッケイ新聞合併15周年記念座談会=(8)=最終走者の時代を迎えて
ニッケイ新聞 2013年9月7日 若松=60歳というと若いよね。本当若い。吉田=でも今はもう60過ぎですら、一世はあまりいないよね。深沢=コチア青年の一番若い人が、もう70ですから。60代の戦後移民っ
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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (40)=満韓か、南洋か、南米か=分かれる国権論者の思惑
ニッケイ新聞 2013年9月6日 1910年代の日本において「海外発展」の方向性は、満韓か、南洋か、それとも南米かという大きな分かれ道に来ており、それぞれの立場から懸命に試行錯誤が繰り返されていた時
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ざっくばらんに行こう!=ニッケイ新聞合併15周年記念座談会=(7)=帰国後活躍する研修記者
ニッケイ新聞 2013年9月6日 田村=それと、今の邦字紙は進出企業とのコンタクトがあまりにも少なすぎるとは思うな。俺は『週刊時報』から『経済報知』、あれを黒字でやってこれたのは、企業に食い込んでいた
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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (39)=伯剌西爾拓殖から海興へ=〃百年の大計〃と営利事業
ニッケイ新聞 2013年9月5日 1916年、伯剌西爾拓殖株式会社は第1回募集の失敗、植民地内の先住ブラジル人との土地問題解決、道路造成、資金欠乏などに苦しんでいた。さらに1917年の第2回募集も不
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ざっくばらんに行こう!=ニッケイ新聞合併15周年記念座談会=(6)=経済政治の解説を増やせ
ニッケイ新聞 2013年9月5日 ■田中敬吾(たなか・けいご)=1931年1月、東京都新宿区生まれ。静岡県警勤めを経て、法務省試験を受けて刑務所看守になり、巣鴨刑務所3年近くいた。1964年に33歳で
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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (38)=300家族募集にたった4家族=まったく集まらない入植者
ニッケイ新聞 2013年9月4日 青柳の国士的熱誠によって進められ、期待を集めていたイグアッペ植民地事業だったが、実は肝心の入植希望者が集まらず、苦心していた。 神戸大学附属図書館サイトによれば、
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ざっくばらんに行こう!=ニッケイ新聞合併15周年記念座談会=(5)=ボロボロとヘトヘトが力合わせ
ニッケイ新聞 2013年9月4日 ■若松孝司(わかまつ・たかし)=1931年2月生まれ。茨城県常陸太田市出身。東京外語大ポ語学科卒、1954年にぶらじる丸の処女航海で渡伯。パ紙で翻訳面を主に担当した後
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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (37)=いよいよ本格入植開始=〃原住民〃のような先発隊
ニッケイ新聞 2013年9月3日 青柳構想に夢を抱いて南米転住を図った輪湖だったが、最初からレジストロ地方に入植した訳ではなかった。『ロッキー時報』での経験を買われ、南米初の邦字紙『週刊南米』(19