連載
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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(54)
ニッケイ新聞 2013年7月30日 その頃、前出のキンターナ、ポンペイア、ツッパンの決起組が、サンパウロへ移動していた。 まず、サンパウロに詳しい新屋敷が先行した。彼は、そこで協力者を確保した。
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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(43)
ニッケイ新聞 2013年7月13日 以上の如くで、結論から言えば、認識派史観Ⅰの使用した「狂信」という言葉は、間違いということになる。 常識的に考えても、そうであろう。終戦当時、邦人社会の人口は、
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ブラジル文学に登場する日系人像を探る 10=中里オスカル=ジャブチ受賞『NIHONJIN』=中田みちよ=(1)=どこかで疼く「日本人」の血
ニッケイ新聞 2013年7月31日 写真=著者の中里オスカル。ジャブチ賞授賞式にて とうとう最後の作品「にほんじん」の登場です。第54回ジャブチ賞(ブラジル書籍協会主催)の受賞作。賞設置から54年目
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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(44)
ニッケイ新聞 2013年7月16日 敗戦の事実を認識せよ!という声は、終戦直後から、一部で上がっていたが、社会運動として一つの形をとって表面化したのは1945年9月29日、つまり終戦の翌月末のことで
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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(55)
ニッケイ新聞 2013年7月31日 さらに、席上、各地の認識運動や戦勝派の動きが、出席者から語られているが、危機感を強く表現しているのがバストスで、山中弘は、 「バストスハ何ラカノ方策ヲトラネバ コ
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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(45)
ニッケイ新聞 2013年7月17日 常盤ホテルでの失敗に懲りず、翌10月、野村・藤平は、下元健吉と組んで、またも同じ様なことを企てた。日本政府から、国際赤十字社を通じて、終戦の詔勅が邦人社会に届いた
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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(46)
ニッケイ新聞 2013年7月18日 同じポンペイアの市街地に居た白石静子(既出)は14、5歳であったが、こう思い出を語る。彼女の家族も戦勝派であった。 「ウチの親族に不幸があって、葬儀の時、近くの
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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(47)
ニッケイ新聞 2013年7月19日 また、臣連は、終戦で利敵産業防止運動は必要なくなったため、止めていた。同時に秘密結社から公開団体へ切り換えていた。 事業目的も「大東亜共栄圏への再移住」に変えて
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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(48)
ニッケイ新聞 2013年7月20日 既述の憩の園の聞き取り調査の中には、次の様な話も記されている。 女性S「当時私たちはアルバレス・マッシャードへ行って居りました。そこで百姓をしておりました。いと
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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(49)
ニッケイ新聞 2013年7月23日 ところで、その皇室の尊厳を侵し国家を冒?する暴言を吐いたハイセンとは誰なのか? 敗戦認識の啓蒙運動の中心部に居った人々が口にしたという記録や言い伝えはない。また