連載
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アマゾン90年目の肖像=「緑の地獄」を「故郷」に=(13)=トメアスー唯一の日系病院
入植当初からマラリアなど風土病に悩まされたトメアスーの歴史は、病院なしには語れない。 「アカラ植民地では、その諸経費中の五〇%が、病院、衛生費であった時もあり罹病率八〇%に達し、植民者の事業計画を
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アマゾン90年目の肖像=「緑の地獄」を「故郷」に=(12)=トメアスー唯一の私立初等学校
「地域に根ざした子弟教育に取り組む」ことを目的として、文協の敷地内にあった学生寮を改修し、2002年2月3日に「日系学校」が創立された。地方には珍しい私立校で、日本の小学生から高校生に相当する生徒が
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アマゾン90年目の肖像=「緑の地獄」を「故郷」に=(11)=三世校長が就任した日本語学校
「外国人は10人寄れば倶楽部を作りたがるが、日本人は7、8家族寄れば先ず学校を建てる」という言葉は、トメアスー移住地において決して大袈裟ではない。1929年の第一回移住者の入植時には先ず父兄会が発足
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アマゾン90年目の肖像=「緑の地獄」を「故郷」に=(10)=眞子さま来訪で大活躍の婦人部
各日系団体で縁の下の力持ちとして活躍する婦人部。トメアスー移住地でも同様に、トメアスー文化農業振興協会(ACTA、文協)とトメアスー総合農業共同組合(CAMTA)では、それぞれ婦人部が組織され活躍し
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アマゾン90年目の肖像=「緑の地獄」を「故郷」に=(9)=90周年でチョコレート生産開始
1929年に南米拓殖株式会社がアマゾン開拓に乗り出した時、最初の営農作物はカカオに設定していた。だが当時カカオ栽培は失敗し、主軸となる商品作物を探して入植者は苦闘の歴史を重ねた。あれから90年、今年
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アマゾン90年目の肖像=「緑の地獄」を「故郷」に=(8)=移住地経済の要CAMTA
トメアスー文化農業振興協会(ACTA、文協)の会館前の道路を挟んで、トメアスー総合農業共同組合(以下CAMTA)の建物がある。こちらの入口前には、南米拓殖株式会社の初代社長、福原八郎の銅像が設置され
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アマゾン90年目の肖像=「緑の地獄」を「故郷」に=(7)=防犯にも取り組むトメアスー文協
7月下旬、ベレンからバスで4時間ほどかけてトメアスー移住地のクアトロ・ボッカスに到着した。目印は、トメアスー文化農業振興協会(ACTA、以下文協)の会館前に建立された巨大な鳥居。高さ10メートル、幅
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アマゾン90年目の肖像=「緑の地獄」を「故郷」に=(6)=帰化と62年ぶりの祖国
ピメンタ景気によってトメアスー移住地の人々が豊かになった63年、元さんは帰化した。農場では一時期、常時80人を雇用するほどの隆盛を誇った。 「政治的にも強くなろう」という当時のトメアスー文化協会(
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アマゾン90年目の肖像=「緑の地獄」を「故郷」に=(5)=“アマゾンの黒ダイヤ”の奇跡
「一時期はね、ピメンタを100トン以上採った年が何度かあったんだよ。あの時は凄かったんだ」――カカオやピメンタがあった農場を思い出し、元さんの声の調子が上がった。絶望の淵にいたトメアスー植民地の逆転
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アマゾン90年目の肖像=「緑の地獄」を「故郷」に=(4)=強制収容所になったアカラ植民地
1941年12月7日(ハワイ時間)、米国のハワイ準州オアフ島真珠湾において日本海軍による攻撃が行われ、米国との戦争が始まった。祖国から遠いアカラ植民地だったが、42年1月に対日国交断絶が布告されると