連載
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水野龍60年忌特別連載=大和民草を赤土(テーラロッシャ)に植えた男=第1回=知られざる家族の逸話=息子「悪人だと思っていた」
ニッケイ新聞 2011年8月10日付け 「移民事業は失敗だったと落胆したまま親父は死んだんです。百周年でブラジル社会、日本社会からあのような賞賛が寄せられたことを、まず母親に伝えたかった」。〃ブラジ
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〜OBからの一筆啓上〜パウリスタ新聞の思い出=田中慎二(元パウリスタ新聞記者)
ニッケイ新聞 2011年8月10日付け 私がパウリスタ新聞に入社したのは1960年9月。当時の編集長は木村義臣さんで、社会部のデスクが藤田普一郎さん。 田村幸重、平田進、野村丈吾といった日系議員の
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〜OBからの一筆啓上〜〃待ち遠しい〃死亡記事=小林大祐(元ニッケイ新聞記者)
ニッケイ新聞 2011年7月27日付け 7月13日早朝、旅客機が落ちた。もしかすると、1年前だったかもしれない。レシフェ発ナタル経由モソロ行。16人が死亡した。その中のひとりが自分であったかもしれな
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盛り上がるクリチーバ日系=50年の歩みふり返る=現10代が150年祭の主役=「民族文化は州民の誇り」=最終回
ニッケイ新聞 2011年7月26日付け 民族芸能祭への参加団体で最も新しいのは、07年に創立した琉球国祭り太鼓クリチーバ支部だ。08年から民族芸能祭に参加し始めた。4回目となる今年は、サンパウロ市や
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盛り上がるクリチーバ日系=50年の歩みふり返る=百周年で再活性化に道=若者の自主性尊重が鍵=第4回
ニッケイ新聞 2011年7月22日付け ニプソンが創立した30年前は移民70周年の前後だ。この時代はコロニアが最も活気にあふれた頃であり、団体再編期でもあった。 クリチーバ日伯文化福祉協会の大島裕
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盛り上がるクリチーバ日系=50年の歩みふり返る=30年間続くニプソン=北パラナから来る人材=第3回
ニッケイ新聞 2011年7月21日付け 元をたどれば北パラナ——。州都クリチーバには50年前、日系人はわずかしかいなかった。大集団地である北パラナの子弟が州都に大学進学し、そのまま居残る循環が戦後生
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盛り上がるクリチーバ日系=50年の歩みふり返る=日本舞踊は後世への財産=150年祭の主役を今教育=第2回
ニッケイ新聞 2011年7月20日付け 昨年まで文協会長を6年間務めたクリチーバ出身の山脇譲二さん(69、三世)は半世紀前、すでにパラナ民族芸能祭の日本グループの司会をしていた。 「最初は南パラナ
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盛り上がるクリチーバ日系=50年の歩みふり返る=パラナ州=台頭する若者の芸能集団=龍千多さん門下生中軸に=第1回
ニッケイ新聞 2011年7月19日付け 1961年に開始し、記念すべき節目の第50回を迎えた民族芸能祭は、盛り上がるクリチーバ日系社会を感じさせる公演となった。パラナ州都で各民族が夜ごとにそれぞれの
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特別寄稿=私のモラエス=「サウダーデ」を巡る移民側からの随想=中田みちよ=(下)
ニッケイ新聞 2011年7月15日付け 99年の講演会以来、ポルトガルは長い間、私の夢であった。2011年4月の末、とうとう、そのモラエスのポルトガルに行ってきた。いまも残されているという生家を訪ね
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特別寄稿=」私のモラエス=「サウダーデ」を巡る移民側からの随想=中田みちよ=(中)
ニッケイ新聞 2011年7月14日付け 「・・・(前略)この通り(作者註・伊賀町)は、この町の一方の端から他方の端へと走って内陸部から市街地を区切る天然の境界をなしている小山のすぐ近くにあり、この小