連載
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65年前の恩讐を超えて=当事者日高が語るあの日=《8》=〃狂信者〃と言われて=ようやく来た雪解けの季節
ニッケイ新聞 2011年2月16日付け 日高徳一は大義名分を大事にする。「僕等はなにも勝った負けたのためにやったんじゃない。あくまで日本国家と皇室の尊厳のために立ち上がったんです。脇山大佐には申し訳
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65年前の恩讐を超えて=当事者日高が語るあの日=《7》=〃急変〃した戦前の指導者=どの立場で暗殺されたか
ニッケイ新聞 2011年2月15日付け 不思議なもので暗殺されたのは同じでも、どの立場で殺されたかによって事件としての意味が異なってくる。また1946年3月からの一連の勝ち負けテロ事件で狙われた人々
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日本語教育リレーエッセイ=第16回=ゴイアス日本語モデル校=桑江良勝=僕の日本語学校
ニッケイ新聞 2011年2月12日付け 僕の名前は桑江良勝です。16歳です。高校2年生です。ゴイアスのゴイアニアに住んでいます。ゴイアニアはとてもいい町だと思います。なぜなら色々な楽しい所があります
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65年前の恩讐を超えて=当事者日高が語るあの日=《6》=環太平洋を股にかけ=波乱万丈な父の生涯
ニッケイ新聞 2011年2月12日付け 日高徳一の祖父・末五良(すえごろう)は宮崎県の旧薩摩藩に属す地域の出身で1877(明治10)年に起きた西南の役の時、「〃一蔵(いちぞう、大久保利通の前名)を懲
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65年前の恩讐を超えて=当事者脇山パウロが語るあの日=《5》=「また来る春がないじゃない」=『高原の花』に込めた想い
ニッケイ新聞 2011年2月10日付け なにげない一日の終わりのはずだった46年6月2日午後7時、突如〃運命の夜〃が訪れた。 4人は応接間に通され、着物姿の脇山元大佐に対面して椅子に座った。客用の
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65年前の恩讐を超えて=当事者脇山パウロが語るあの日=《4》=ジャズ愛した大佐の息子=脇山家に訪れた運命の夜
ニッケイ新聞 2011年2月9日付け 運命の日——1946年6月2日午後7時ごろ、まだ9歳だった脇山パウロさんは4歳年上のお姉さんと一緒にお客さんだと思って、玄関の戸を開けた。張り詰めた空気をまとっ
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65年前の恩讐を超えて=当事者日高が語るあの日=《3》=「臣聯=特行隊ではない」=勝ち組潰しで誤解広めた?!
ニッケイ新聞 2011年2月8日付け 日高徳一は1946年4月1日の元駐亜国大使・古谷重綱襲撃にも参加し、未遂に終わっている。同時に実行された野村忠三郎・元文教普及会事務長殺害事件の影響で、翌2日に
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65年前の恩讐を超えて=当事者日高が語るあの日=《2》=「日の丸事件」の真相は=誰の言葉が正しいのか?
ニッケイ新聞 2011年2月5日付け 1946年正月、パウリスタ延長線ツッパン郊外の植民地で「日の丸事件」が起きた。後に続くテロ事件の予兆といえるものだった。 『百年の水流』(外山脩、06年)によ
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65年前の恩讐を超えて=当事者日高が語るあの日=《1》=寄贈された襲撃犯の日の丸=コロニア史の貴重な1頁
ニッケイ新聞 2011年2月4日付け 「天皇陛下のことになると全てを忘れた」。1946年4月1日早朝、勝ち負け抗争の野村忠三郎殺害時に襲撃犯の蒸野太郎(1919—2009、和歌山県)が腹に巻いていた
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リオ被災地緊急ルポ=SOS届け!支援の手=《4・終》=困難な会館の復旧作業=共助精神で地域に一体感
ニッケイ新聞 2011年2月1日付け 日系クラブの会館が川の中に—?! 1月23日に無事に支援物資を届け終えた援協役員らがノヴァ・フリブルゴを出発した後、記者だけ単独で一日現地に残った。 被害が大