連載
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「アマゾンの歌」を歩く=(2)=さびれた移民の玄関口
ニッケイ新聞 2009年7月16日付け サンパウロ州の日本移民の功績を高く評価していたパラー州のジオニジオ・ベンテス州統領は一九二三年、アマゾン地域にも日本移民を受入れる用意があることを、就任間もな
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「アマゾンの歌」を歩く=(1)=入植当時の場所に今も
ニッケイ新聞 2009年7月15日付け ノンフィクション作家角田房子(一九一四~)による『アマゾンの歌 日本人の記録』(一九六六年に毎日新聞社から出版、後に中央公論社が文庫化)は、トメアスー移住地を
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寄稿=リオ=グランドスラム柔道観戦記=(下)=柔道家=石井千秋
ニッケイ新聞 2009年7月14日付け 期待されたブラジル勢の六十五キロ級のジョアン・デルリは五位、チアーゴ・カミーロは三位、百キロ級のルシアーノ・コレアも決勝でオランダのバンジェストに手の内を読ま
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アマゾンを拓く=移住80年今昔=【パリンチンス/ヴィラ・アマゾニア編】=《7・終》=伊原清子さん「辛いことばかり」=唯一残ったジュート工場
ニッケイ新聞 2009年7月14日付け 「お互い学生だったし、仕事も知らずに来たからね…。主人にもこぼせなかった辛いことばかり。ついて来た女が悪いですよ」。 高拓生四期生の伊原只郎(しろう、長野県
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アマゾンを拓く=移住80年今昔=【パリンチンス/ヴィラ・アマゾニア編】=《6》=戦争が引き裂いた夢=潰えた植民地計画
ニッケイ新聞 2009年7月11日付け ジュート栽培は過熱の一途を辿った。高拓生もマナウスから下流のサンタレンまで約千キロに広がり、現地人を指導し、生産に励んだ。 一九三九年に第二次世界大戦が勃発
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日伯論談=第10回=日本発=堀坂浩太郎=グローバル時代の人材形成の場
2009年7月11日付け 私が所属する上智大学には、日本では数少ないポルトガル語とポルトガル語圏のことを専門に教えるポルトガル語学科がある。その入学試験でのことである。 「小学校のクラスメートにブ
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寄稿=リオ=グランドスラム柔道観戦記=(上)=柔道家=石井千秋
ニッケイ新聞 2009年7月9日付け 七月四、五日にリオデジャネイロ市のマラカナンジーニョ体育館で開催された、グランドスラム国際柔道大会を観戦した。 第一は柔道着が昔とすっかり変ったという事である
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アマゾンを拓く=移住80年今昔=【パリンチンス/ヴィラ・アマゾニア編】=《5》=ジュートの歴史教える尾山学校=3男多門氏「ジュートなければ全滅」
ニッケイ新聞 2009年7月9日付け 日出ずる国からリョウタがやってきた 川岸にジュートが広がった そうして私たちの心に愛が生まれた――。 そんな校歌の歌詞を校内に掲げる学校がパリンチンスにある。
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アマゾンを拓く=移住80年今昔=【パリンチンス/ヴィラ・アマゾニア編】=《4》=高拓生・東海林善之新さん=「アマゾンに来て良かった」=藤川氏の経本を所有
ニッケイ新聞 2009年7月8日付け 「今もなお鬼哭の声が耳につき わが巡礼の旅は終わらじ」ー。 藤川辰雄は、同郷山口県の代議士田中龍夫と知己を得たことから、田中が会長となり一九六二年に発足した「
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アマゾンを拓く=移住80年今昔=【パリンチンス/ヴィラ・アマゾニア編】=《3》=研究所跡は上塚学校に=打ち捨てられた墓石
ニッケイ新聞 2009年7月7日付け 上塚司は調査団をヴィラ・アマゾニアに残し、森林伐採や宿舎建設などに当たらせた。 一九三〇年に開校していた国士舘拓植学校(後の日本拓植学校)を卒業した四十七人は