連載
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松原植民地=56年目の追憶=連載〈5〉=日本で松原手伝った梅田さん=「移民事業は国のためだが、親不孝」
ニッケイ新聞 2009年1月23日付け 日本で松原の「かばん持ち」をしていた梅田幸治さん(和歌山、84、モジ市在住)は、一九四一年にクリチーバに移住した兄の梅田礼資さんから松原の手伝いをする旨の手紙
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松原植民地=56年目の追憶=連載〈4〉=松原とヴァルガス大統領=知られざる親交の深さ
ニッケイ新聞 2009年1月22日付け ブラジルのために立派な日本人が必要と訴えてきた松原は、五一年のサンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約締結以降、辻小太郎氏と移民の導入権を求めていた。五二年
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松原植民地=56年目の追憶=連載〈3〉=松原安太郎の素顔=「虎のような髭をはやした優しい人」
ニッケイ新聞 2009年1月20日付け 植民地に名前をつけられた松原安太郎とは、どのような人物だったのか――。 五月書房発行の「日本・ブラジル交流人名事典(パウリスタ新聞社発行)」によると、松原(
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松原植民地=56年目の追憶=連載《2》=戦後初の南伯移民=『頑張れッ』各地で歓迎
ニッケイ新聞 2009年1月17日付け 南麻州日伯連合会創立二十五周年記念史「躍進への道」(一九八八年十二月発行)によると、松原植民地には、一九五三年七月のオランダ船ルイス号、八月のチチャレンガ号、
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松原植民地=56年目の追憶=連載〈1〉=今も残る初期移民 那須夫婦=昨日のように思い出す大霜
ニッケイ新聞 2009年1月16日付け マット・グロッソ・ド・スル州(南麻州)ドウラードス市から約七十五キロ、サンパウロ市から西南方向に約千キロ、パラグアイ国境まで百二十キロという場所にある松原植民
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ブラジルで白球追う少年たち=9年目のヤクルト野球アカデミー=連載〈下・終〉=課題は資金と指導者育成=佐藤監督「勝ち負けにこだわらず」
ニッケイ新聞 2009年1月14日付け ブラジル野球界では様々な問題を抱えている。現在の課題と現状、ヤクルト野球アカデミーが目指している野球などについて、佐藤允禧監督に語ってもらった。 今一番問題
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ブラジルで白球追う少年たち=9年目のヤクルト野球アカデミー=連載〈中〉=9年で3百人超が卒業=「文武両道」のアカデミー
ニッケイ新聞 2009年1月13日付け ヤクルト野球アカデミーは二〇〇〇年に完成した。一九九七年にヤクルト本社が、工場と野球場を一緒に作るように計画していた。しかし、交通の問題などで工場はロレーナ市
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ブラジルで白球追う少年たち=9年目のヤクルト野球アカデミー=連載〈上〉=日本と変わらぬ練習風景=年々増える非日系選手
ニッケイ新聞 2009年1月10日付け サンパウロ市から西に約七十キロ離れたイビウーナ市にある「ヤクルト野球アカデミー」。日本やアメリカでプレーすることを夢見る選手たち四十四人が、日本やアメリカでプ
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連載〈4・終〉=桜組挺身隊の集会に参加=父親「まあ、黙っとけ」
ニッケイ新聞 2009年1月10日付け 五四年五月、サントス港に到着した夜、池田さんは一人で泣いた。 「どうして帰ってきたんだろうって。あんなに日本で良くしてもらって」とも思っていた。 帰伯後、
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連載〈3〉=運命の不思議で就職=知事のモーニング作る
ニッケイ新聞 2009年1月9日付け 両親は失意の中、わずか二カ月でブラジルへ帰った。「オヤジは本当にがっかりしていました」。弟家族も一年間で帰った。残ったのは池田さん家族三人だけだった。 最初に