連載
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半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(4)=死と隣り合わせの逃避行
半沢さんはおじさんのもとに戻り、母親の状態と同行できないことを伝え、再び小屋に戻った。昼頃におじさんが小屋に顔を出し、母親を診ていた。 母がこのまま死ぬのではという不安に耐えられず、半沢さんが泣い
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半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(3)=予期しなかった母親の死
逃避行で向っている方向、島の反対側からも米軍が攻めて来ている、という知らせを受けた。進路を変え、急いで逃げ場所を求めて歩いた。疲れて歩けなくなった妹は引きずられるようにして進んだ。 雨季の最中に何
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半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(2)=米軍の再上陸、雨の逃避行
太平洋戦争緒戦における日本軍のフィリピン進攻作戦は1941年12月8日に始まり、翌42年5月10日に制圧を終えた。 フィリピン当初は45日で主要部を攻略できると判断され、担当部隊として第14軍が編
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半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(1)=「全てを忘れる気で日本出た」
サンパウロ州アチバイア市の豊かな自然に囲まれた家に住む半沢友三郎さん(82)は、「ヨ(自分)らも終わりかなと思っていた」と遠くを見つめながら回想した。半沢さんは1935年12月22日にフィリピンのミ
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県連故郷巡り ブラジル/ポルトガル/日本=不思議な〃三角関係〃=第27回=三国の様々な歴史的な絆
大武はブラジルでポ語を習得して帰朝。《その後、二十数年間引き続いて在本邦ブラジル公使館(今は大使館)に通訳官として勤務し、その寸暇を割いて有志者にポルトガル語を享受し、我が国最初の葡和辞典と和葡辞典
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県連故郷巡り ブラジル/ポルトガル/日本=不思議な〃三角関係〃=第26回=悲劇のレオポルド親王
二宮さんの指摘を受けて『ブラジル人国記』(野田良治、1926年、博文館)をひっくり返してみた。1880(明治13)年にアルツル・シルベイラ・ダ・モッタ海軍少将(後のジャセグアイ男爵)が天津で李鴻章と
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県連故郷巡り ブラジル/ポルトガル/日本=不思議な〃三角関係〃=第25回=地元紙が大々的に報道
リスボンの日本国大使公邸での交流ディナー中、外交官らと歓談した際、日本人奴隷に関する資料がないか尋ねたが、「私も個人的にこの件にはすごく関心を持っているが、ポルトガル外交官は一般にこの件には触れたが
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県連故郷巡り ブラジル/ポルトガル/日本=不思議な〃三角関係〃=第24回=「メストレいる限り日本信じる」
「父はポルトガル語がペラペラではありませんでした。でも絶大な信用をされていました」というのは「ポルトガル柔道の父」の娘さち子さん。 「清さんの教え子は何人ぐらいですか?」と尋ねると、「何万人じゃな
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県連故郷巡り=ブラジル/ポルトガル/日本=不思議な〃三角関係〃=第23回=ポルトガル柔道の父・小林清
在京ポルトガル大使館サイト13年9月13日付けには《ポルトガル柔道の父死去》との文章が掲載されている。 《小林氏は、1958年に柔道の国際的普及活動の一環としてポルトガルに渡りました。当初は2年の
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県連故郷巡り=ブラジル/ポルトガル/日本=不思議な〃三角関係〃=第22回=この国との様々な出会い
リスボンの日本国大使公邸には現地日本人が10数人ほども集まっており、一行と熱心に語り合う姿がみられた。 今回HISトラベルの現地パートナーとして旅行の手配をしたミキトラベル代表、久保田右子さん(ゆ