連載
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移住坂 神戸と海外移住(終)=旧移民収容所を活用=海外日系人会館建設へ
7月8日(火) 神戸で今進めている海外移住者顕彰事業は「神戸港移民船乗船記念碑碑」、「移住坂」、「海外日系人会館」の三事業(「神戸移住三点セット」)。神戸のまちを上げて、広報、啓発事業を実施し、海外
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移住坂 神戸と海外移住(12)=たびたび変った名称=収容所、歴史とともに
7月4日(金) 「神戸移民収容所」(内務省所管)は、昭和三(一九二八)年三月の開業以来、七十余年にわたり、神戸の高台から町と港を見つめてきた。開業時、三千三百平方メートルの敷地に五階建の本館(延床三
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移住坂 神戸と海外移住(11)=収容所第1期生の旅立ち=2キロを700人の隊列
7月3日(木) 一九二八年三月十七日、ついに出発の日がきた。講話と予防注射に明け暮れた七日間だった。 雨の中を到着した初日の身体検査、二日目の第一回チフス予防接種、三日目は午前の講習(一般的心得、
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移住坂 神戸と海外移住(10)=渡航費は大人200円28年=乗船前夜、慰安の映画会
7月2日(水) 神戸又新日報の収容所レポートは続く。六日目の午後、海外興業の社員が収容所に来て渡航費の精算をした。同社の手配で入所前に移民宿に滞在していた移住者の宿代、雑費が細かく算盤ではじかれて家
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本紙記者がのぞいた=亜国日系社会は今―終―亜国邦字紙最後の砦=相次ぐ他紙廃刊を超え
7月2日(水) 現在「らぷらた報知」の発行日は火、木、土の週三回(四頁で西版は木に二頁)。日本語編集部は高木さんを含め三人、製作や営業部も含め、十数人がアルゼンチンでの日本語新聞の最後の砦を守り続け
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移住坂 神戸と海外移住(9)=予防注射は嫌われたが=熱心だったポ語の勉強
7月1日(火) 四日目になると、取材の神戸又新日報の記者も慣れてきた。この日、収容所出口に「外出禁止」と書いた立て札が掲げられた。無断外泊者が多かったためだ。外出できなくなった若者たちは、時間を持て
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本紙記者がのぞいた=亜国日系社会は今―4―アナウンサー・俳優・編集長=三足のわらじ 高木さん=健啖と饒舌は老いを知らず
7月1日(火) 「忙しいから、三時間しか寝ないですよ。でも居眠りも多いから五時間は寝てるかな」と高笑い。 アルゼンチン唯一の邦字紙「らぷらた報知」の名物編集長、高木一臣氏(七八歳)である。 その
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移住坂 神戸と海外移住(8)=憎まれ役だった医官=食堂は火事場のような騒ぎ
6月28日(土) 移民収容所第一期生の収容所生活が始まった。全国から集まった五百八十一人の移住者の受け入れは、所員にとっても初めての経験で、とまどうことばかりだ。生活習慣、考え方、年齢も異なる大集団
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本紙記者がのぞいた=亜国日系社会は今―3―=市民の憩いの場 日本庭園=積極的にイベント開催
6月28日(土) 亜日本文化財団(コサカ・カズモリ会長)は七日午前十時から、市内パレルモ地区にある日本庭園で「第一回秋祭り」を開催した。 晴天も手伝ってか、関係者の予想を大きく上回る二千五百人以上
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移住坂 神戸と海外移住(7)=移民宿から収容所へ=開所日、乗用車で乗りつけた
6月27日(金) 七十七歳の老婆や洋行気取りの若夫婦 五百八十一名が押しかけた国立移民収容所 店開きの好況」、一九二八年三月十日午前九時に開所した移民収容所を報道した「神戸又新日報」(三月十一日号)